龍の系譜 PHASE2

CREW EDGE

龍の系譜





 狭い牢獄にむっと立ちこめる自分の血の匂いを、レオノアーヌは嫌でも意識せざるを得なかった。


 ミュゼルワールがユラリと立ち上がる。
 うつむいた白い顔は、乱れてまとわりつく長い前髪に隠れ、その表情が見えない。
 揺れる視線が、鎖に自由を奪われ、壁に繋がれたレオノアーヌの姿を捉えた。
 拘束された両腕をだらりと下におろしたまま、ミュゼルワールがずる、……ずる、と身体を引きずり、レオノアーヌに近付いてくる。
「おい………」
 レオノアーヌの声に、いらえはない。
 ミュゼルワールはレオノアーヌの正面に辿り着くと、醜く焼けただれた跡を晒すレオノアーヌの胸の斜十字の傷に手を伸ばした。


「──────…」
 褐色の肌を伝う鮮やかな血糊に、指先が触れる。
 レオノアーヌは身体を強ばらせた。


 だが、次の瞬間、ミュゼルワールが口の中で唱えたのは回復魔法だった。
 レオノアーヌの傷口にかざした手の平から、淡く白い清浄な光が放たれていく。
 傷口の出血が止まった。引きつるような鋭い痛みは依然として残るものの、気が狂うほどの熱と疼きは次第に遠ざかっていった。
「てンめぇ……、おどかすんじゃねェよ、ったく……。」
 レオノアーヌが大きく息をつき、ぐったりと脱力する。
 ミュゼルワールは魔力が尽きるまで回復魔法を唱え続けると、レオノアーヌの前から離れ、隣の壁に背をついた。そのまま、ずるずると床に腰を落としていく。
 冷たい床に座り込み、苦しげに息を吐くミュゼルワールに、レオノアーヌは怪訝そうに片方の眉を上げて呟いた。
「なんだよ、顔色が悪りィな。そっちもなんかされたんか?」
 ミュゼルワールは額を押さえた手の平で長い前髪をかきあげ、ゆっくりと首を振った。
「いや。大丈夫──────…だ」
「そっか。てっきり操られてんのかと思って焦ったぜ…。しかしなんだって、あいつはわざわざ俺らを同じ檻に入れやがったんだ?」
「それは─────」
 ミュゼルワールがふっと自嘲気味に笑う。
「オレがてめェの意志でお前の血を喰らうのを待ってんだろ………。」
「はッ、俺の処遇はあんたの自制心次第ってわけかよ。いい趣味してやがるぜ、あのコウモリ野郎」
 レオノアーヌは唇を歪めた。
「言っとくが俺の血は死ぬほどマズいぜぇ?」
 からかうような口調でうそぶくレオノアーヌに、ミュゼルワールは牢獄の壁を見つめたまま、うんざりと首を振った。
「誰がテメェの血なんぞ吸うかよ………。」
 レオノアーヌはトーチの炎にぼうっと照らされた牢獄の中をぐるりと見回した。
「ここはどこだ?」
「たぶんザルカバードだ…。オレが以前幽閉されてたのもこんな感じの場所だった。」
「へぇ、えらく辺鄙な場所に連れてこられたもんだな。…なぁ、鉄格子の外はどうなってる? こっからじゃよく見えねぇや………脱出できそうな手掛かりはねぇか?」
 ミュゼルワールは立ち上がると、力の入らぬ身体を引きずり、錆び付いた鉄格子に手を触れるとゆっくりと外を窺い見た。
 通路に人影はなく、自分達の収容された牢から漏れる灯りだけが、かろうじて周囲の景色をぼんやりと映し出している。


 トーチに火の灯された檻はここだけだった。単に暗いというだけでなく、他の檻からは生きる者の気配が一切伝わってこない。


「外は同じような牢屋がいくつか並んでるのが見えるだけだな。他に誰かが捕われているようには見えねえ。通路に見張りは見当たらんが、脱出しようにもこの鉄格子とお前の鎖をなんとかしねえことには………」
「くっそ、精霊魔法が使えりゃこんな鎖……。」
 レオノアーヌは自身の魔道の流れを妨げる大きな力に舌打ちし、悔しげに唇を噛んだ。
「なんなんだよこれ。なんで魔法が使えねぇんだ?」
「おそらく原因はその拘束具だろうな…。オレの時もそうだった。その鎖には何か悪しき力が封じられてる気がする。」
「でも、あんたさっき魔法使ってたよな?」
「あぁ……」
 ミュゼルワールは自分の手の平を見下ろした。
「確かにな。なんでか知らんが、今回オレは見逃されたらしい。」
「だったらあんたが何とかしてくれよ。この鎖ぶっ壊せねぇ? あんたどんな魔法使えるんだ?」
 ミュゼルワールはレオノアーヌの隣に再び腰を下ろすと、ぐったりと身体を壁に預けた。
「王国騎士の習得必須魔法を一通りと、─────あとは暗黒魔法だ。」
「あ? 」
 レオノアーヌが呆気にとられて聞き返す。
「ナイトなのに暗黒魔法? どんな道理だよそれ」
「うるせぇ…。」
 ミュゼルワールは瞼を閉じると、後頭部を後ろの壁に当てた。
「奴らに軟禁されてるうちに使えるようになってたんだ………。その頃のことはよく覚えてねえし、好きで習得したわけでもねえ。」
 レオノアーヌはノスフェラトゥと対峙した時のことを思い出した。
 そういえば、ノスフェラトゥは暗黒魔法を一通り使いこなしているようだった──────。
「まぁ、なんでもいいや。あんた動けんだから、何とかしろよ、この鎖」
 ガチャリと音を立てて鎖を引き、繋がれた腕を示してみせる。
 ミュゼルワールは溜め息をついた。
「無茶言うな。暗黒魔法が無機物に効くかよ。」
「っ使えねぇなオイ」
「何だと?」
 二人、睨み合う。
 しかし、先にがっくりと肩を落としたのはレオノアーヌのほうだった。
「やめようぜ、エネルギーの無駄だ………。」
「てめェから仕掛けやがったくせに…」
 ミュゼルワールが視線を反らし、忌々しげに呟く。


 全く、なぜこんな奴と二人きりなのか──────…。
 同じことを、二人は考えていた。








「そういえばラジュリーズはどうした?」
「っダンナどうしてっかな〜……。」
 二人同時に呟く。
 顔を見合わせる。舌打ちするタイミングまで一緒だった。
「なんも言わずに来ちまったからなぁ。誰かさんのせいでよ。」
 ぼやいてみせるレオノアーヌに、もう挑発には乗らないとばかりにミュゼルワールは壁から視線を動かさず、
「頼んだ覚えはねえ。…ラジュリーズのことだ、オレらがいなくなってることにはすぐ気付くだろうが、さすがにザルカバードに至る手掛かりはねえだろうな………。」
「あんたダンナのこと前から知ってんのか?」
 レオノアーヌがわずかに興味をみせる。
「当たり前だ。同じ王立騎士団の将を知らんわけねえだろう。顔ぐらい合わせたことはある。」
「なんだ、それだけか。」
 つまらなそうに言うレオノアーヌに、ミュゼルワールはムッとして、
「何が気に入らねえ?」
「いや、ダンナはあんたのことよく知ってるみたいだったからよ…。」
 ミュゼルワールはあっさりと首を横に振った。
「オレらの隊は他部隊と比べ遠征に出る機会が多かったからな。王都には滅多に帰還しねえし、タイミングよく向こうも帰還してることなんざほとんどねえ。作戦会議以外ではロクに話すらしたことねえよ。」
「ふ〜ん…」


 だとすればなぜ、ラジュリーズは命令に背いてまでこの男を救おうと奔走しているのだろうか?
 貴族としての地位や名誉、──────そういったものに固執するタイプには確かに見えないが、しかし自分の率いる隊のこともある。一名の騎士を頂点とするサンドリア独自の騎士隊編成では、隊長の失墜は隊そのものの失墜に直結する。何十といるであろう自分の部下の命運までも引き換えにするほどの何が、目の前の男にあるというのだろうか。
 まぁ、聞いても答えは返ってこないだろう。憎たらしくも人を惹きつけるあの笑顔で、あっさりと煙に巻かれるに決まっている。


 レオノアーヌはノスフェラトゥが口にした言葉を思い出した。
「……ま、ダンナのことだし心配いらねぇかぁ。コウモリ野郎の言うことなんざ忘れよ……。」
「奴が何か言ってたのか?」
 ミュゼルワールが顔を上げる。レオノアーヌは肩をすくめた。
「 "あの男は我が手にかかりすでに散った" とかなんとか………。ったく、そんな戯れ言に騙されるかっつーの。」
 それを聞いたミュゼルワールが、わずかに目を見開いた。
 レオノアーヌがいぶかしげに眉を寄せる。
「あんだよ。何反応しちゃってんの? あいつがそんな簡単に殺られるわけねぇだろ?」
「…………。」
「何とか言えよ。」
 ミュゼルワールはしばらく虚空を見据えていたが、やがてゆっくりと息を吸い、言葉を吐き出した。
「……奴がそう言ったんなら、そりゃおそらく本当のことだ……。」
「ッ何だと!?」
 レオノアーヌが気色ばむ。
 ガチャリと鎖の音を響かせ、レオノアーヌは身体を起こした。足元に座るミュゼルワールを鋭い目で睨みつける。
「ざっけんなよ。んなわけねぇだろ。」
「奴は虚偽や虚勢は口にしない──────…。奴がそう言ったんなら、ラジュリーズはもう、………」
「………ッ!!!」
 レオノアーヌは両手両足を縛められていることも忘れ、怒りに任せてミュゼルワールの身体を蹴り上げようとした。鉄の鎖が甲高い音を辺りに響かせる。蹴り上げるどころか目の前の身体に届きもしない足に、レオノアーヌは歯ぎしりし、なおも鎖をガチャガチャと鳴らしながら荒い息を吐いた。
「気に食わねェッ!!! ………やっぱりてめェは気に食わねぇよ!!! あいつが殺られただと!? んなわけあるかってんだ!!! テメェはあのコウモリ野郎と俺らと、どっちの味方なんだよ、えぇ!?」
「オレは真実を言っただけだ──────。」
 ミュゼルワールの声に表情はない。
「るっせんだよ、畜生!!! それ以上言いやがったら殺す!!!」
 荒々しく怒鳴ると、レオノアーヌはドンッと音を立てて後ろの壁に拳を打ちつけた。
 レオノアーヌの荒い呼気が冷たい牢獄に流れる。外の通路の静寂がひときわ目立つ。


「……悪かった」
 ややあって、表情を変えぬままミュゼルワールが呟いた。視線は壁に向けたままで。
「ケッ………」
 レオノアーヌは忌々しげに首を振り、ミュゼルワールから顔を反らせた。





*         *         *






 王立騎士団の作戦会議室の扉が開き、アシュメアがドラギーユ城の大広間に姿を現した。


 クスローの指示により入室を控えていた緋猪騎士隊の従騎士が三名、アシュメアの姿を視界に認め駆け寄ってくる。
「いかがでしたか。我々まで人払いなさるとは、何か緊急事態でも?」
 差し出されるマントを受け取りながら、アシュメアがドラギーユ城門へと歩を進める。
「案ずるな、さしあたって我が隊に影響の出るようなものではない。…ん、ここにいるのはお前達だけか? 他の者はどうした。」
「は。実は先程、南サンドリア西門付近にて復旧作業中の城壁の一部が倒壊したようでして。負傷者が多数出たらしく、副隊長殿が幾名かお連れになり、救援に向かわれました。」
「そうか。ならばお前達も手助けに行ってやれ。わたしは木工ギルドに顔を出してくる。」
「お一人歩きは危のうございます。護衛を何名かお連れ下さい、隊長殿」
「なに、木工ギルドは目と鼻の先だ………。それよりも、早く西門に向かうのだ。怪我人の手当ては一刻を争うはずだろう。」
「分かりました。では我らは副隊長殿の元へ向かいます。」
「頼んだぞ。」
 アシュメアは走り去って行く部下の後ろ姿を見送ると、髪の色と同じ緋色のマントをひるがえし、北西エリアの工人通りへと歩き出した。
 石畳の街路を道なりに進み、格子戸の落ちかかる中門をくぐり抜けると、水門から放出される滝の水音が高くなり、アシュメアのブーツが立てる音はほとんどかき消される。
 右折してすぐの階段を下に降り、滝の横を通り過ぎようとした時、
「よう。元気かジャジャ馬」
 柱の陰から聞き慣れた声がした。


「……気安く話しかけるな」
 歩く速度を全く緩めず、視線も前に向けたままでアシュメアが答える。
「そんなこと言っていいのか? 緋猪騎士隊の隊長が同じ王立騎士団の将をシカトするのはどうかと思うがな。」
 アシュメアは立ち止まると、水門から放たれる怒濤の水流の下、通路から死角となる位置に組まれた狭い物見台の上で、腕を組み暗い色の石壁にもたれかかるヴェスティーレの長身をぐいと睨みつけた。
「お前がなぜ今王都にいる………。茜隼騎士隊はラヴォール村に駐屯中のはずだろう。」
「お、さすが。オレの動向はバッチリ把握してるわけだ。」
「他部隊の動向を把握することのどこに他意があるというのだ? 下らん与太話に付き合う暇などない。」
 アシュメアの声音はあくまで冷たい。
「まぁ待てよ。」
 ヴェスティーレはその場を立ち去ろうとするアシュメアを押しとどめた。アシュメアが不快の色をあらわにする。それには構わず、ヴェスティーレは直立不動の姿勢を取ると、別人のように厳かな表情になり、頭をたれると静かに言った。
「まずは傍系の末席に身を連ねる者として弔意を述べさせていただく。父君の死、誠にお悔やみ申し上げる。戦闘のさなかであったゆえ、訃報に接しても手を合わせるいとまなく、今に至るまで本家への訪問も叶わなかった。非礼を心よりお詫びしたい。」
「……今は戦時だ。気にする者などいない……」
 アシュメアが視線をやや反らし気味に呟く。
「…ご遺体は王都へは?」
 アシュメアは首を振った。
「故グライナー卿の輝かしい武勲は我が王立騎士団の誇りであり、このオレの目標でもあった………。その卿に目に入れても痛くないほど可愛がられたあなただ。ご愁傷とご落胆、お察しする。」
「やめてくれ…。」
 アシュメアはふらりと上体を揺らせると、ヴェスティーレに背を向け、こめかみに白い指先を当てて喘ぐように呟いた。
「わたしはまだ──────父上の話をされて………平静でいられるほど、強くは、ない──────…。」
「………」
 ヴェスティーレはアシュメアの苦しげな姿をひたと見据えていたが、不意に長い腕を伸ばすと、アシュメアの緋色の髪に触れ、華奢な頭を引き寄せた。
「──────!」
 それは、抱擁と呼ぶには無造作にすぎる動きだった。片手で抱えたアシュメアの頭を自分の胸に押しつけ、ヴェスティーレが中空に視線を投げる。
 自分を見ようとしないヴェスティーレを、アシュメアは見上げた。………ヴェスティーレの穏やかな、確かな心音が頬に伝わってくる。


 幼い頃、頬を寄せた父の背中も、同じように確かな鼓動を伝えていた──────。


 自分の頬が濡れているのにアシュメアは気付いた。
 一度堰を切った感情は押しとどめようもなかった。高くなる滝の音に、小さな嗚咽はほとんどかき消される。身を震わせるアシュメアを抱きしめるでも突き放すでもなく、ただその頭を抱えたまま、ヴェスティーレはじっと滝を見つめている。
 ヴェスティーレの表情にほんの一瞬、思いつめた苦しげな色が浮かんだが、その色はすぐに消えた。
 柱の影が足元に長く差し込んでいる。日が傾いてきたのだとヴェスティーレはぼんやりと思った。








「こんな……ところを、部下にでも見られたらどうするつもりだ……。」
 ようやく落ち着いてきたのか、バツが悪そうに呟きながらアシュメアが身体を離す。
 ヴェスティーレは離れていく身体を追うでもなく、低い木の手すりにもたれるとゆっくりと首を振った。
「別にどうってことないだろ? ガキん頃はそれこそくんずほぐれつ、もつれあって遊んだ仲だ。」
「あの頃と一緒にするな………。」
 アシュメアは溜め息をついた。
「…まぁ、見られたら見られたでオレは構わないけどな。なんだったら大人のくんずほぐれつってやつを試してみるか? 」
 冗談めかしてそう言ったヴェスティーレは、次の瞬間、ヒュッと音を立てて息を止め、身体を硬直させた。銀色の薄刃が首の皮一枚の所にひたと据えられている。アシュメアは愛剣の刃をギラリと光らせると、触れただけで肉を裂く魔剣の切っ先をほんのわずかに動かした。
 すう、と細い血の糸がヴェスティーレの首筋を伝う。
「おっかねぇ。お前また剣の腕を上げたんじゃないか?」
 降参とばかりにヴェスティーレが両手を上げる。
「…お前にわたしを抱く勇気があるのか?」
 クッと唇を歪めて笑いながら、アシュメアが剣を引く。
 ヴェスティーレは首筋を伝う血糊を親指で拭い、ぺろりと舐めながら、
「本家のお嬢様に手を出す気はねえよ………今じゃお嬢様どころか当主様だしな。手ェ出したなんてバレてみろ、ウチみてえに本家のおこぼれで細々と食ってきた傍系の一族なんざ、一晩でとりつぶしだ。」
「分かっているなら余計なことを言うな……。全く、誰がお前など。わたしは父上のように情に厚く信に厚いまことの騎士が好みなのだ。」
「それってオレじゃん。」
「世迷い言を抜かすのも大概にしろ。騎士ならばもっと紳士的であるべきだ!」
 ヴェスティーレは大袈裟に肩をすくめた。
「分かってないねえ。お前の大好きな父君だって、好みの女の話をする時は眉尻が下がってたんだぞ?」
「なっ!! そ、そんなはずはない!!!」
 本気で動揺するアシュメアに、ヴェスティーレはつい意地悪をやめられず、
「ほんとだって。娘の前じゃそんなツラは見せなかったろうがな。」
「わっわたしは信じないぞ!! 」
 どうやら本気で怒ったらしいアシュメアは、白い頬に鮮やかな血の色をのぼらせてヴェスティーレを睨みつけている。
「どうして王立騎士団の将はこうも野卑な輩ばかりなんだ!! お前といい、お前とよくつるんでいるバルマ家の長男といい、騎士の風上にも置けん!! 伝統ある王国騎士を名乗るなら、まずはレディの扱いを学んで来い!!!」
 そこまで一息に言って、返ってくるであろう反論に身構えたアシュメアは、しかしヴェスティーレの顔を見て眉をひそめた。
 ヴェスティーレはそれまでのふざけた顔つきが嘘のように、凛とした表情を浮かべ沈黙している。素早く周囲を見回すと、ヴェスティーレはアシュメアに顔を寄せた。
「………そうか。クスロー卿に直談判するつもりで来たが、お前でもいいんだよな。」
「…な、なんの話だ。」
 アシュメアが思わず身体を引く。
「アシュメア、お前の隊はクスロー卿の直下で動いてるんだよな?」
「そうだが………」
 いぶかしげに目を細めるアシュメアを、ヴェスティーレはいつになく真剣な顔で見下ろした。
「だったら何か知らねえか? ラジュリーズのことだ。あいつが今どこでどうしているか─────オレは王都防衛戦以来一度もここに戻れなかったから、詳しいことは何も知らねえんだ。…あいつが行方不明だってのは本当なのか?」
「──────…。」
 アシュメアの浮かべた表情は沈黙に勝っていた。
 ヴェスティーレは唇を引き結ぶと、ずいとアシュメアに身体を寄せた。








「鉄鷹騎士隊は破壊された城壁の復旧作業にあたっているが…。」
 アシュメアが呟く。
「オレが聞きたいのは隊員の動向じゃねえ。ラジュリーズがどこにいるかだ。─────何か知ってるんだな? アシュメア」
 アシュメアは視線を反らせた。
 この男には何を言っても見抜かれてしまう。それは自分が一番よく分かっていた。………だが、
 ──────喋るわけにはいかない。
 ヴェスティーレはアシュメアの背後の壁に片手をついた。
「オレの隊と鉄羊騎士隊の混成チームがラヴォール村のオーク掃討作戦に向かう少し前、村にラジュリーズが現れたそうだ。あいつは仲間をたった一人連れたきりで敵が占拠する集落に向かい、そして戻ってこなかった─────。あいつが意味もなく単独行動をとるわけねえよな? クスロー卿の指示で動いてたんじゃねえのか?」
「─────ヴェスティーレ」
「だが、掃討作戦のブリーフィングで、クスロー卿はそれらしいことをオレらに一言も言わなかった。…どうにも腑に落ちねえ。なんかこう、オレの知らないところで何かが起きてる気がするんだが………」
「…ヴェスティーレ!」
 アシュメアがヴェスティーレの声を鋭く遮った。
 アシュメアは目を細め、叱責するような口調で言葉を続ける。
「それ以上、言うな──────…。その件には関わるな!!」
「なんでだよ?」
 ヴェスティーレが怪訝そうに眉をひそめると、アシュメアはゆっくりと首を振り、
「その件は今、非常に微妙なことになっている──────。いや、厄介な、と言ったほうがいいのかもな。……」
「どういうことだ?」
「それは………」
 アシュメアが唇を噛みしめる。
「──────…」
 ヴェスティーレはすいと目を細めると、壁についた片手はそのままに、アシュメアの正面に立った。
 もう一方の手を持ち上げ、ゆっくりと壁につく。
 アシュメアの身体はヴェスティーレの両腕に左右を塞がれる形になった。アシュメアの背が壁に当たる。
「わたしが力ずくでどうにかなる女だと思うのか?」
 きつい瞳で見上げるアシュメアに、ヴェスティーレはうつむき、流れ落ちる前髪で表情を隠したまま呟いた。
「力でどうこうしようなんざ思っちゃいないさ。─────」
 その声に脅すような響きはない。
 ヴェスティーレはうつむいたまま言った。
「オレだって剣士のはしくれだ、刃を交えなくても分かる。……お前の剣技はとっくにオレの力量なんざ追い越してる。……だがな、」
 ヴェスティーレがゆっくりと顔を上げる。その顔に浮かぶ表情を見て、アシュメアは息を呑んだ。
 よく知っているはずの男、それなのに、それは今まで見知っていた、どの表情とも違う──────。
 自分をまっすぐに見据える真摯な瞳。それは態度がどうあろうと、アシュメアの思い描く、騎士の姿そのものだった。


「お前の刃にこの腕を斬り裂かれても、オレはここをどかねえ。─────アシュメア、頼む。お前が知ってることを教えてくれ。オレのダチがヤベェんだ。」








 アシュメアの発する言葉の一つ一つを、ヴェスティーレは眉一つ動かさず、真剣な眼差しで聞いていた。


 知りうる限りの情報を口にし終えると、アシュメアはぐったりと身体の力を抜き、壁に身をもたせかけた。
 知りうる限りといっても、それが氷山の一角に過ぎないことなど容易に想像はつく。だが、ヴェスティーレは一つ大きく息をつくと、心からの言葉を素直に口にした。
「恩に着るぜ、アシュメア──────」
 壁から離れたヴェスティーレの右手が、空中で揺れる。
 緋色の細い髪に触れようとするかのようにためらいがちにのばされた手を、アシュメアはぱしっと払いのけた。
「…触れるな。」
 氷の冷たさを含んだ声で拒絶する。
「あ、…あぁ、─────すまない」
 手を下ろすヴェスティーレを、アシュメアはぎろりと睨みつけた。
「こういう時だけ女扱いしようとするな。勘違いされては迷惑だから一応言っておくが、話したのはお前にほだされたからでは断じてないからな。……今回の一件に関しては、わたしも疑問に思うことが多いんだ。だからグライナー家の当主としてお前に命じる。この件に関し、できうる限り情報を集めてほしい。いやとは言うまいな?」
 ヴェスティーレはふっと笑うと、優雅に頭を下げ、レディに対する最上級の騎士の礼をした。
「我が一族はいにしえより尊き直系の血筋に仕えし影の一族。貴命、仰せのままに」
「…ふふ。情に厚いお前の姿というのも、なかなか悪くはなかったぞ。」
 アシュメアはそう言うと、つと手をのばし、ヴェスティーレの頬に白い指先を添えた。
 近付いてくる顔に、ヴェスティーレが柄にもなく固まる。


 だが、次の瞬間、どふっと音を立ててアシュメアの拳がヴェスティーレの腹にめり込んだ。
「─────これはさっきの礼だ。まだまだ修行が足りないな、ヴェスティーレ。顔を洗って出直して来い。」
 悶絶するヴェスティーレを尻目に、アシュメアはマントをひるがえすと颯爽とその場を去っていった。
「くあ、いいパンチだ………!! 男を手玉に取るお前も悪くはねえよ……げふッ」





*         *         *






 三週間に渡る防衛戦が終結し、ようやく平時の空気を取り戻した南サンドリア。


 倒壊した城壁、積み上げられた敵味方の死体、凱旋広場に無造作に並べられた敵将の首級。………平穏と呼ぶにはあまりに凄惨な光景がそこかしこに見られたが、それでも、街路を行き交う人々の姿に、ほんの二、三日前まで見られたような、こびりつく不安と焦燥の色はない。
 凱旋広場の南端、チョコボ宿舎の手前に位置する二階建ての軍事施設に、防衛戦の報酬を受け取りにきていたレオノアーヌは、周囲の人々の視線も気にせず、握りしめた拳をドカッと木のカウンターに打ちつけると、語気も荒く大声で怒鳴った。


「ざっけんな!! ハナシが違うじゃねェか!!!」


 猛狗傭兵団に支払われる報酬額は規定通りだったのだが、レオノアーヌ個人に別途支給されるはずだった斡旋料が、規定の額より少ない。
 羊皮紙の書類を前にレオノアーヌの顔を見上げた書記官は、羽根ペンを手にした片手で眼鏡をくいっと持ち上げると、無表情のまま言った。
「それについては王立騎士団長殿より指示書をたまわっています。貴団から敵軍の陽動作戦の可能性ありという情報の開示がなく、結果的に紅燕騎士隊の全滅という事態を招いたことは極めて遺憾であると─────本来であれば傭兵団そのものに支払われる報酬額もカットされるべきところですが、この度の戦における猛狗傭兵団の働きは、特にランペール門の死守という一点において他部隊に勝るとも劣らぬ貢献ぶりであったことから、特別に恩赦を施し、指揮官である貴方お一人への減給という形で対応することにしたそうです。」
 書記官の長い口上を黙って聞いていたレオノアーヌは、こめかみに青筋を浮かせて拳を握りしめると、マホガニー材のカウンターをもう一度ドンッと打ちつけた。
「何が情報の開示だッ!! 俺らの団にゃ破城鎚が確認されたなんて情報は入ってこなかったぞ!? 情報を出し惜しみしてんのはテメェらの方じゃねぇか!!!」
「わたくしに言われても困ります。わたくしはただ拝領した指示書に従い書類を作成したまで。ご不満があるというならこの書類を破棄してもよいのですよ? ただし、代わりの書類が作成されることは未来永劫ございませんが。」
「きっさま……」
「団員を養わねばならぬお立場なのでございましょう? 団への報酬は規定通り支払われているのですから、ここは騎士団長殿のご厚意にむしろ感謝なさるべきです。そのようなご立腹、わたくしには理解できません。」
 取りつく島がない書記官に、レオノアーヌは全身をぶるぶると振るわせると、大声で怒鳴った。
「てめぇじゃ埒が開かねェッ、上官連れてこい!!!」
「さて、無理を申される──────。戦場での仕事を終えれば解放されるあなた方と異なり、騎士団の要職にある方々は皆、今回の防衛戦の後始末に奔走されておいでです。あなたのお相手をなされるほどお暇な方はおられませんでしょうな。」
 のらりくらりと言い逃れる書記官に業を煮やしたレオノアーヌは、力任せにカウンターを蹴り飛ばすと、書記官の手にした書類をひったくり、怒りに任せた乱暴な足取りでその場を後にした。


 凱旋広場に姿を現したレオノアーヌは、手にした羊皮紙をぐしゃぐしゃに握りつぶすと、キッと顔を上げて凱旋門を睨みつけた。
 そびえたつ凱旋門は、日の光を燦々と浴び、灰色の堂々とした姿を空高く突き立てている。──────レオノアーヌはその先に行ったことがない。
 戦時である今、北サンドリアへの出入りは厳しく規制されている。王国公認の傭兵騎士団ならいさ知らず、私設団である猛狗傭兵団の団員は、レオノアーヌも含め、誰一人としてその先に足を踏み入れることを許されてはいなかった。
 レオノアーヌはギリッと唇を噛みしめると、ためらうことなく凱旋門へと足を向けた。
「貴様、なんのつもりだ? この先へは許可なき者は何人たりとも通さぬぞ。」
 門の手前で直立不動の態勢を取っていた衛兵二名が、レオノアーヌの姿を見とがめ声を上げる。
 レオノアーヌはそれには構わず、ずかずかと大股で歩を進めると、強引に二人の間をすり抜けようとした。
「待て!! ─────貴様逆らうつもりか!!」
「っせぇんだよ!! 邪魔すんじゃねぇ!!!」
「今すぐ止まらねば拘束するぞ!!!」
「やれるモンならやってみろ、雑魚がッ!!!」
 衛兵が敵意もあらわにレオノアーヌに掴み掛かってくる。だがたった二人ではレオノアーヌの猛攻を押しとどめようもなく、逆に弾き飛ばされ凱旋門の壁にしたたかに身体を打ちつけた。レオノアーヌはそのまま門をくぐり抜けようとしたが、騒ぎを聞きつけた神殿騎士団員が多数駆け寄り、衛兵の加勢に加わってくる。
 常軌を逸した騒ぎに、道行く人々が不安気に足を止めた。凄惨な戦闘の記憶が誰しもの脳裏に蘇り、ようやく訪れた平和を乱す者に、容赦のない非難の視線が注がれる。
 その時。
 北サンドリアから、門をくぐり凱旋広場へと姿を現わした二人の男の姿があった。


 一人は、北サンドリア大聖堂の司教。
 そのやや後ろに付き従うように、しずしずと歩を進めてくるのは、白魔道士の白と赤の固有装備に身を包んだ、まだ若い青年だった。
 その二人の姿がやけに人目を引くのは、若い青年のほうが、薄汚れた旅装束に身を包んだ一体のゴブリンを伴っていたからかもしれない。 


「──────これは、司教様。………」
 司教の姿に気付いた神殿騎士団員達が、たちどころに態度を改め、深々と頭を垂れる。
 司教は目の前の状況を品定めするかのように視線を巡らせると、ひとつ溜め息をつき、静かな口調で言った。
「─────ようやく訪れた、平穏と静寂。女神アルタナ様の思し召しをくつがえそうとするは、不敬千万な振る舞い………。神殿騎士団は軍隊である以前に、女神アルタナ様の敬虔な信徒でなければならぬはずです。そなたらの行動、自ら恥じ入る所はありませんか?」
「は、しかし─────」
 団員の一人が、神妙な態度を取りつつも、レオノアーヌを睨みつけた。
「この者、我らの再三の制止をはねつけ、恐れ多くも国王陛下のおわす北サンドリア内郭へと踏み入ろうとしましたゆえ──────」
「…ふむ。そこの者、なにゆえそのように無謀な態度を取ったのです? 何か上申があるのであれば、専任の書記官を通せば済むことでしょうに。」
 レオノアーヌはチッと舌打ちすると、
「……専任の書記官ってのはアレか? 嫌味と逃げ口上しか口にしやがらねぇ忌々しい奴らのことか?」
 司教は思案げに首を傾げた。
「ふむ、…わたくしの元には、彼らのそのような風評は伝わってきておりませんが………。しかし実際に彼らに接した者の意見ならば、ないがしろにすることはできませんね。騎士団長殿に話を通し、彼らの勤務態度の実態調査を行うよう取り計らってみましょう。」
「司教様!!」
 神殿騎士団員が一様に表情を変える。
「このような不遜な輩の戯れ言など、まともに取り合う必要はございませんぞ!!」
 司教はすうと目を細めると、穏やかな口調のまま言葉を続けた。
「平時は王国内部の治安維持に努めるそなたらも、今回のような戦時には、国の外に討って出る機会もあることでしょう。国を一歩離れた戦地では、兵糧一つ、物資一つの有無が戦局を左右することもあるはず。国内に陣を構える自軍の有りようを基準に考えてはなりません。」
「──────…。」
「傭兵といえども、今回の防衛戦において国の安寧を護るため命をかけた者達です。その者達が王国軍の運営面の管理体制にもの申すというのであれば、その意見、吸い上げて貴重な糧とするべきです。……そこの者。内郭への侵入は許可できませんが、ここにいるジョゼアーノが代わりにお話を伺いましょう。」
 司教に名指しで指名され、赤毛の若い青年がびくっと身体を震わせた。
「あ、かしこまりました。…その。僕にどこまでできるか分かりませんが、騎士団の方とならお話をする機会がまったくないわけでもありません。お話をお聞きし、お伝えしてみましょう。」
「てめぇみてえなヒヨッコに頼むことなんざこれっぽっちもねェよ!! 邪魔したなッ」
 レオノアーヌは吐き捨てるように怒鳴ると、興を削がれたかのようにぷいっと背を向け、無言でその場を去ってしまった。


「あ。………」
「気にすることはありませんよ。ジョゼアーノ」
 レオノアーヌの後ろ姿を途方に暮れたように見送るジョゼアーノに、司教が優しく声をかける。
「そなたらも、此度のこと、上司への報告は不要です。神殿騎士団長ムシャン殿にはわたくしから説明しておきましょう。─────さぁ、皆持ち場に戻りなさい。ここにいてもいたずらに人々の不安を煽るだけですよ。」
 司教にそう言い渡され、神殿騎士団員は一人、また一人とその場を離れて行った。


「──────…」
 ジョゼアーノが、レオノアーヌの去って行った方向をじっと見つめている。
「どうしました? ジョゼ」
「あ、─────いえ、なんでもありません。」
「そうですか。では、我々も参りましょう。ムシャン様を随分とお待たせしてしまっているはずです。」
「はい。」
 素直に頷いたジョゼアーノは、足元で黙りこくったまま一部始終を眺めていたゴブリンに声をかけた。
「─────さぁ、行こう。リーダ」








 その日の夕刻。


 番犬横町の路地裏に、地図を片手にオロオロしながら、不安気な瞳を辺りに投げかけるジョゼアーノの姿があった。
 やや離れた場所で、人目を避けるようにゴブリンのリーダヴォクスが物陰でじっとしている。
「あ、あのッ…、ヤシュヴァールという方をご存知ではないですか………?」
 ジョゼアーノは、道ゆく傭兵を捕まえては同じ質問を繰り返していた。
 質問に答えるどころか、まともに相手をしてくれる者すらおらず、ジョゼアーノが途方に暮れる。
「ヤシュヴァールなら死んだぜ…。」
 不意に、声がした。


 振り返ると、酒場の入口にもたれかかるレオノアーヌの姿があった。シックチェーンメイル一式を脱ぎ、薄手の黒の上下をまとった気楽ないでたちである。
「えっ、……そ、そうなんですか……。」
「奴になんの用だったんだ?」
 レオノアーヌが手にしたリンゴをかじりながら、大して興味もなさそうに聞いた。
「あの…、リーダが精製する薬の材料をお持ち頂けることになっていたんです。」
 レオノアーヌが眉を寄せる。
「薬の材料だぁ? あいつがそんなん持ってたとも思えねぇがなぁ………」
 のんびりと言うレオノアーヌに、ジョゼアーノは肩をすくめてみせた。
「ゴブリンの作る薬ですから…。我々の薬に使うような材料とは毛色が違うといいますか。」
 どうやら既知の仲らしい二人の会話に、警戒の色はない。
「ちなみになんてゆーんだ? 探してるブツは。」
「あぁ、"水袋の弦"です。」
 レオノアーヌはリンゴを咀嚼しながら首をかしげた。
「なんだそりゃ。聞いたことねぇな。」


【 "ストレラォイ" だ──────。】
 それまで黙っていたリーダヴォクスが、のそりと口を開いた。


 突然の獣人語に、レオノアーヌが顔を上げる。
「…なんだ。"竜神のヒゲ" のことか。」
「え、"竜神のヒゲ" とは─────?」
「正式名称は知らねぇ。獣人共がそう呼んでるんだ。……そうか、あれは "水袋の弦"っつーのか……」
 一人納得したように呟いたレオノアーヌは、ちっと待ってな、と言いおくと、その場から姿を消した。
 所在なさげにジョゼアーノがきょろきょろしていると、しばらくして戻ってきたレオノアーヌが、手にした細い管状の何かをジョゼアーノに放った。
「さっきの礼だ。もってけ」
「あ、これは"水袋の弦"……。なぜあなたが?」
「そいつぁすりつぶして別の薬草と混ぜると鎮静剤になるんだよ。ただしそれ自体毒性がかなり強ぇから、滅多に使うこたねェがな。まぁお守り代わりみてぇなもん?」
「はぁ……」
「ま、そんな劇毒を薬に使おうなんざ俺かゴブリンくらいしか思いつかんだろなぁ。」
「これは植物なんですか? それにしてはやけに弾力がありますが………」
 レオノアーヌはニタァと嫌な笑みを浮かべた。
「聞きてぇ? あんたが50イルムは飛び上がるほうに賭けるがな。」
「や、やめときます…。」
 ジョゼアーノはヤシュヴァールに支払うはずだった代金を差し出した。
「んなはした金いるかよ。今日の酒代にも足りねぇや。」
「でも、ただ御好意に甘えるわけには──────」
「好意なんぞねぇから心配すんな。獣人と人間の架け橋になりてぇなんて馬鹿げた野郎はそのうちおっ死ぬに決まってんだ。香典代わりにくれてやんよ。」
「ば、馬鹿げてなんかいないです……。」
 ジョゼアーノは両手を握りしめると、精一杯レオノアーヌを睨みつけた。
「ったく、その細っこい身体のどこに獣人共の本拠地に乗り込んでく勇気があるんだかなぁ。まぁ奴らにひねりつぶされねぇよう、せいぜい気ィつけるこった。ほんじゃな。」
 レオノアーヌは後ろ手にひらひらと手を振ると酒場の中に戻って行った。


「よかったね、リーダ………水袋の弦が手に入って」
 呟きながら振り返ると、リーダヴォクスの姿がない。
 慌てて周囲を見回すと、どうにか視界に入るぎりぎり遠くに、番犬横町を抜けて槍兵通りへと戻って行くリーダヴォクスの小さな後ろ姿が見えた。
 ジョゼアーノが慌てて後を追う。
「っ駄目じゃないかリーダ、街なかを歩くときは僕の側を離れちゃ…今は戦時中なんだよ? お前一人じゃ、誰にどんな目に遭わされるか分からないんだから………」
 ようやく追いつき、両手を膝についてゼイゼイと息を切らすジョゼアーノに、
「─────リーダ、あの男キライ。」
 リーダヴォクスがゴブリンにしては流暢な人間語で言った。
「どうしてだい? 人を見た目で判断するのはよくないことだよ、リーダ。あの人は確かに口調もやることも乱暴かもしれないけど──────」
「つくづく愚かなジョゼ………。リーダ見た目で判断、しない。」
「よく分からないなぁ。獣人語を話せるあの人と、人間語を話せるリーダなら、仲良くなれそうな気もするんだけど。」
 リーダヴォクスは不愉快そうに両手を振り回した。
「一緒にするな。リーダ人間語喋るは、人間理解するため。あの男は違うよ? リーダはあの男、何してきたか知ッてる。」
「え……?」
 リーダヴォクスはジョゼアーノを置いてさっさと歩き出した。
「ゴブリンには掟ある。仲間裏切ったら、百日責めの刑。反省しなかッたら、さらに百日。………あの男は千日責められたって足りないよォ?」
 それっきり、リーダヴォクスは興味を失ったかのように口をつぐんでしまった。
「──────…」
 呆気にとられたように立ち尽くしていたジョゼアーノが、離れて行くリーダヴォクスに気付き、後を追う。


 宵闇が、二人を追い立てるかのように、そのとばりを広げていった。





*         *         *






 不自由な体勢での睡眠には慣れている──────それがたとえ立ったままだったとしても。


 身体を支える両足が、ふっと眠りの深い谷に落ち込む瞬間、がくりと力を失い、肩よりやや高い位置で両手首を縛める鎖がギシギシと耳障りな音を立てる。枷を壁につなぐ鎖は十分な長さがないため、両膝を床に落として体重を支えることもできない。
 それでも、レオノアーヌは瞳を閉じ、一度寝ると決めたら断固寝続けた。
 胸に刻まれた大きな斜十字の傷が、再びじんわりと血をにじませ、疼くような熱を持ちはじめている。回復魔法を受ければ一時的なりとも抑えることのできる痛みだが、レオノアーヌはそれを要求するつもりはない。
 痛みは意識から切り離せる。
 ………だから少なくとも、レオノアーヌが今、はっきりと覚醒したのは、寝苦しい体勢のせいでも、身体を苛み続ける傷の痛みのせいでもなかった。


 夜更け過ぎ──────。
 妖しく揺らめいていたトーチの炎は、いつの間にか消えていた。


 漆黒に塗りつぶされた闇の中、レオノアーヌは耳を澄ませた。──────音か、あるいは気配か、………自分を眠りから呼び覚ましたなにものかを探るために。


「──────ッ………、 …ぅ……」
 自分のものではない、不規則に途切れる苦しげな喘ぎが、牢獄の中を満たしている。
 何が起きているのかは容易に想像がついた。──────ジャグナー森林で見た光景が、レオノアーヌの脳裏に蘇る。
「…ッグ……ぅ………あ……………」
 不透明な闇に紛れ、姿は見えない。夜気を縫うように流れる押し殺した呻き声だけが、絶え間なくレオノアーヌの耳を打った。


 ──────そうか、とレオノアーヌはひとりごちた。
 キーワードは、夜なのだ。


 ミュゼルワールの身体に異変が起きるのは、決まって夜だ。考えてみれば、最初にこの男をラヴォール村で発見したのも、ジャグナー森林でスミロドンの血をむさぼっていたのも、全て夜の出来事だった。
(【なるほどその場しのぎの代用とはなろう…、だが獣の血と人間の血とは決定的に違う………。】)
 ノスフェラトゥの言葉はレオノアーヌの耳にも届いていた。


 ミュゼルワールが、人の血を最後に喰らったのは、ラヴォール村でのことだ。
 事切れた王国兵の首筋に牙を突き立ててから、ゆうに四日は経過している。
 半ば吸血鬼と化した身体が、一体何日の間、人の血なしでいられるかなど、考えたくもなかった。


 断続的に響くのは,重い身体を壁に打ちつける音。
 ──────ギリッと、壁か床に爪を立て、ミュゼルワールが震える息を吐く。


 声をかける気は、レオノアーヌにはなかった。
 口論をしたからなどという理由ではない。
 ミュゼルワールがそれを望んでいないことが、分かっていたからだ。


 じわり……レオノアーヌの胸の斜十字の傷が疼き、深紅の液体がまた一筋、肌を伝いこぼれ落ちた。
 血の匂いが辺りを染めていく。不意にミュゼルワールの息遣いが荒くなった。
「ッ…………!! ──────ッッ!!!」
 自分で自分の口を塞いでいるのだろうか、くぐもった声が──────乱れる息の下から上がる悲痛な声が、無理矢理押し殺される。


 手首を縛られただけのミュゼルワールと異なり、四肢を壁に固定された自分は満足に動くこともできない。その気になれば、この身体に牙を立てることなど、容易にできるはずだった。
 自分にさして好意を抱いているわけでもなさそうなミュゼルワールが、それをしないのはなぜか──────。
 騎士道などというあやふやなものを、レオノアーヌは信じていない。
 スミロドンの胸に右腕を穿ち、心臓を引きずり出したミュゼルワールが、自分に同じことをしないと言えるだろうか?


 ──────その時。


「…ッあぁ…………!!! オ…レ………は…、 ……オレ………は──────…ッ!!!」
 何かにすがるように、ミュゼルワールが同じ言葉を繰り返した。


(──────…!!)
 レオノアーヌは目を見開いた。




(『──────ミュゼルワール!! お前は人間だ!!!──────』)




 ジャグナーの森の中で。


 ──────人であるために、戦う意志を持ち続けろと。
 そう口にした自分は、一体何を分かっていたのだろうか?


 他の誰でもない、自分自身の流す血が、この男を苦しめることになるとも知らずに。


 レオノアーヌはきつく瞼を閉じた。
 闇に紛れたその姿が視界に映ることはない。だが、そうと分かっていても、目を開けていることができなかった。


 吐き出す息がやけに熱い。
 ──────この感情は、やはり怒りなのだろう。


 夜明けを待つ以外、二人にできることはなかった。





*         *         *






 光など射さないと思っていた場所にも、届くほの白い光。
 闇が徐々に薄れ、空気の色が変わっていく。 
 ここがザルカバードであるなら、決して日など登るはずはない。──────だが、肌に触れる空気は透明さを増し、先程までとは明らかに異なる清廉な雰囲気をまといながら、朝の訪れを凛として告げていた。


(…眠った─────か。)
 レオノアーヌは口の中で静かに呟いた。


 永遠とも思えるほど、長い長い夜をまんじりともしないで過ごしたレオノアーヌは、規則正しい寝息がかすかに耳に届くのを感じ、はっ…と深い息を吐き出した。
 レオノアーヌのいる壁際から離れた場所で、部屋の隅の壁に上半身をぐったりともたせかけ、両足を床に投げ出したミュゼルワールが死んだように眠っている。
 乱れた長い前髪が顔を半ば覆い隠している──────かすかに開く無防備な口元からは、二本の白い牙がこぼれ出ている。
 下半身はラジュリーズと同じラム装備を身につけているが、上は素肌に白いシャツを一枚はおっただけで、青白い肌の色を晒すミュゼルワールの姿は、妙に寒々とした印象を見る者に与えていた。
 見た目だけであれば、自慢の装備を剥ぎ取られ上半身裸のレオノアーヌも大差ないのだが、こちらは褐色の肌に有り余るほどの血流を巡らせ、冷気に晒されても寒さを感じることがない。
 レオノアーヌは、ミュゼルワールを起こさぬよう音を立てずに身体の向きを変えると、めりめり……と全身の筋肉を鳴らして大きく身体を伸ばした。
 ついでに、ぐるんぐるんと首や肩を回す。
(─────ふぅ。…)
 わだかまっていた血流がほぐれると、褐色の身体はたちまち本来のしなやかさを取り戻した。同時に頭がすっきりと冴え渡る。


 レオノアーヌは自分の足首を拘束する鉄の枷を改めてじっくりと見下ろした。
(…………。)
 次は顔を上げ、手首を拘束する鎖の伸びる先、壁と鎖の固定部分を眺める。
(……不可能じゃねェはずだ……。問題は方法だが──────…)
 身体の動きがぴたりと止まる。
 周囲の状況を忘れ果てたかのように、レオノアーヌはそれきり微動だにせず、思考を巡らせることに集中した。








 レオノアーヌが再び身体を動かしたのは、かなりの時間が経過してからだった。
 鎖の固定された黒い壁を見上げ、材質を確かめるように粗い凹凸に指先を這わせる。 
(─────おし。)
 レオノアーヌはひとつ頷くと、顔を上げた。壁の隅にもたれて死んだように動かないミュゼルワールに視線を投げる。
 もう少し寝かせてやりたい気もする。だが、奴らが来てからでは何もかも遅い。
 レオノアーヌは足元に転がっていた小さな石くれを軽く蹴り飛ばした。
 コツリと音を立てて、石くれがミュゼルワールのブーツに弾ける。安らかな寝息を立てていたミュゼルワールが、ふっと呼吸を途切らせた。
「─────よう。寝てるとこ悪りィな。」
 声をかけるレオノアーヌに、ミュゼルワールの身体がぴくりと反応する。
 ゆっくりと薄い瞼を上げたミュゼルワールは、しばらく焦点の合わぬ視線をぼんやりと宙に投げ、放心していた。
 血の気の失せた青白い顔。昨日までは、時折頬に赤みがさすこともあったように思う。だが、やはり、彼の中で何かが進行しているのであろう──────残された時間は、あとどれくらいだろうか。
 ミュゼルワールは徐々に焦点の合ってきた瞳で手のひらを見つめ、ついで顔を上げると、周囲の壁をぐるりと見渡した。
 足元で弾けた石くれに、ゆっくりと視線を落とす。
 そして最後にレオノアーヌの顔を見た。


「動けるか? ──────動けねぇなんて言うなよ? お前にやってほしいことがあんだからよ。」
 怪訝そうに自分を見上げるミュゼルワールに、レオノアーヌはきっぱりと言った。
「あんな夜が続くのはごめんだ……。ここから脱出するぞ、ミュゼルワール。そのためにゃお前の手助けが必要なんだ。」