PHASE 2
"レオノアーヌ"
Leonoyne
二週間前──────
西ロンフォール
北サンドリア西楼の突端に位置する石造りの監視塔からは、火の手に巻かれ焦土と化した西ロンフォールの地が遥か遠くまで見渡せる。
かつては緑鮮やかな常緑樹が生い茂り、朝もやが静かに漂う時間帯に監視塔の狭間窓から眺める澄んだ景色は、名工の手による芸術作品のように美しかったものだが、それも今は──────
各窓ごとに二名ずつ配置された弓兵が代わる代わる長弓を射るその横で、緋猪騎士隊長アシュメアは、銀色の兜を締めた細い面をぐっと上げ、硝煙がたなびくロンフォールの地をきつく睨み下ろしていた。
背後から近付いてくる重い足音。
石畳の床を打ちつけるブーツの踵が立てる足音は特徴的で、アシュメアは振り返らなくともそれが誰なのか分かった。
「矢弾の補充はまだか」
努めて低い声でアシュメアが問いかける。
「半刻後には納入できると木工ギルドより回答がござった。」
アシュメアの半歩後ろで立ち止まった緋猪騎士隊副隊長は、同じように西ロンフォールの地を狭間窓の隙間から見下ろしつつ答えた。
アシュメアが頬にわずかに血を上らせながら振り返る。
「ッ、それでは間に合わぬのではないか?」
「ギルドの職人達も昼夜に継ぐ作業に追われております。防衛戦が始まってから早二週間─────、ギルド桟橋から材料を調達できるとはいえ、こうもフル稼働が続いては、生産効率も多少は落ちようというもの………。あまり彼らを責めなさいますな、マイロード」
「わたしは責めてなど………ッ」
アシュメアが唇を噛み締める。
幼さの残るその表情を、老齢の副隊長が包み込むような瞳で見下ろす。
アシュメアはその眼差しを振り払うように右手を大きく横に振った。
「わたしは…ッ、我が隊は、いつまでこのような場所に籠っておればよいのだ!? すぐ下の大地ではあのように激烈な戦いが繰り広げられているというのに─────、他の隊の者達が命を張って斬り結ぶ様を黙って見ていることしかできないのか!?」
「…マイロード」
「白々しい呼び方はやめろッ!!」
叩き付けるような声に、副隊長は右手をつと上げると、手の甲でぴしりとアシュメアの頬を打った。
それは軽く音がする程度の弱い打擲だったのだが、アシュメアは言葉を途切らせ、動けなくなった。
「臣下の前で取り乱されるな、アシュメア様」
副隊長が呼び方を改める。つい先頃まで、そう呼ぶのが当たり前だった呼び方に。
「アシュメア様にはこの監視塔の、ひいてはランペール門の死守が此度の戦においてどれほど重要な意味を持つかお分かりになりませぬか?」
「──────…」
副隊長は視線を巡らせ、背後に広がる北サンドリアをその手で指し示した。
「我が王国への外地からの進入路は東ロンフォールに一ヶ所、西ロンフォールに二ヶ所。そのうち東門と西門は外郭の南サンドリアへと通じるもの、ここランペール門のみが王国の内郭たる北サンドリアに直接通じる経路なのはご存知の通り。国の心臓部たる王城に大聖堂、確保された水路と武器生産ギルド、─────万が一南サンドリアに敵軍が侵入した場合、北サンドリアは玉体と民草を護る最後の盾となるのです。だからこそ、」
「唯一北サンドに通じるこの門だけは、何があろうと破らせるわけにはいかない、か─────」
アシュメアが低い声で呟く。
副隊長は頷いた。
「騎兵戦に長けた隊にはそれなりの、白兵戦に長けた隊にはそれなりの活躍場所がございます。我が隊が王立騎士団に誇れるものは何か、よくお考えになられるとよいでしょう。」
そこまで言い終えると、副隊長はその場に跪き、頭を深く垂れた。
「…出過ぎた真似を致しました。主君の頬を張り、他の者達の前で叱責するなど臣下にあるまじき反逆。この老体いかようにも処罰を受ける覚悟にございます。」
「………」
アシュメアは呆気にとられてその姿を眺めていたが、やがて眉尻を下げると、溜め息まじりに声をかけた。
「頭を上げてくれ………。私が悪かった。」
その言葉に、ゆっくりと上体を起こした副隊長は、やはり包み込むような眼差しをアシュメアに向けた。
「あまり功を焦られますな、アシュメア様。我ら緋猪騎士隊、総力をもってあなた様を支えますゆえ」
「ありがとう…」
突然の父の死による爵位の拝領、そして父の率いていた騎士隊隊長への就任──────。
まだ幼いその肩にかかる重圧はどれほどのものか、………その場に居合わせた隊員達の誰一人として、取り乱したアシュメアに怪訝な目を向ける者はいなかった。
「隊長、あれを─────」
狭間窓から外の様子を伺っていた隊員が声を上げた。
「どうした」
平静さを取り戻したアシュメアが振り返る。
「七時の方角に破城鎚が複数確認できます。まだ距離は遠いですが─────あの進軍速度ですと半刻後にはここに到達するかと」
「むぅ…、今下で戦っているのはどの部隊だ?」
アシュメアが手の平で陽光を遮りつつ、部下の指し示す地平線に目を凝らす。
「紅燕騎士隊です。私設の傭兵団もいるようです。」
「紅燕隊に即刻連絡を。他の門に詰めた者達にもだ。………私はクスロー卿の元に行く。お前もついてこい」
副隊長に声をかけつつ、マントを翻すと石畳の床を大股に歩き出す。
「いかがなされるおつもりですか」
「決まっている、破城鎚が門前に達する前に先制攻撃を仕掛けるよう進言しに行くのだ。…我らの隊が誇れるものは何かと先程問うたな? 先遣部隊たる我らにはうってつけの任務だろう………あぁ、もちろん監視塔には十分な戦力を残していくから心配するな。」
先程までとは一変した勇ましい態度に、副隊長が口元をわずかにほころばせる。
ひとたび燃ゆる双剣を手にすれば、その細身の姿からは想像もつかぬほどの、修羅の如き斬撃が繰り出される。不安定な将と剛胆な剣豪という、相反する二つの姿を併せ持つ新しい主君に、不可思議な高揚を覚えつつ副隊長は改めて心中で忠誠を誓った。
監視塔の足元、ランペール門にほど近い辺り。
下生えの広がる緩やかな丘陵は、ずるりと足を取られそうな程に血糊でぬめり、所狭しと投げ出された敵味方の死体で極端に足場が悪くなっていた。
鈍色のホーバークをガシャリと鳴らすと、レオノアーヌは足元の死体がぐちゃりと音を立てるのも構わずに軸足を地面に叩き込み、大きく踏み込むと同時に両手剣の巨大な刃を真一文字に薙いだ。
オーク二体の胴を真っ二つに裂いた刃は、その勢いを鈍らせることなく大きな美しい弧を描いた。刃に血はついていない。ぐらりと、一拍おいてからオークの体がゆらぎ、その時初めてすさまじい量の鮮血が宙にほとばしった。
逆手に持ち替えた両手剣を突き上げ、目の前を塞ぐ敵の喉元をえぐりながら、レオノアーヌは口角のつり上がった口から耳障りな笑い声を放った。
「ヒャハハハハハハハッッ!!! …足りねェ、全ッ然足りねェよッ!!!」
目の前のオークがバトルダンスの構えを見せる。同時に、背後のオークの放った両手鎌が、レオノアーヌの機動力を封じるべく地面すれすれに旋回した。銀色の刃が足元を刈り取る寸前、レオノアーヌの身体は宙に舞い、鮮やかな跳び開脚蹴りが二体のオークを同時に吹き飛ばした。
しなやかに地面に着地したレオノアーヌは両手剣をひらめかせ、降り注ぐ矢の雨を弾き飛ばすと、巨大な斧を振りかざすオークの間合いに強引に飛び込み、刃の一閃で斧ごと腕を叩き斬った。
ぐんと両足を踏みしめ、レオノアーヌが群がり来るオークの群れを睨み据える。
素早く呪文を唱える声が心なしか上ずっているのは、目眩がするほどの興奮状態にあるからだ──────その手から放たれた青白い光が、すぐにキイィィン─────…という鋭い音に変わり、直後、周囲に群がる複数のオークの体が、地面から突き立てられた幾本もの巨大な氷柱に貫かれ、無惨に飛び散った。
「まだだ、まだ足りねェッ…!!! てめェら、この俺をイカせてみやがれッッ!!!」
この興奮は、女を抱くようなものとはまるで違う、………身体の内に渦巻くすさまじい欲望が、巨大な剣を一振りするごとに炎のように全身から噴き上がり、そのたびにゾクゾクとたまらない震えが下半身を突き上げる。
今がいつでここがどこか、なんのために戦っているのかも分からなくなりそうな桁外れな快楽に身を投じながら、レオノアーヌは恍惚とした表情で剣を振るい、敵を屠り続けたが、
──────しかし、体から斬り落とされ宙を舞うオークの腕に刻まれたあるものが視界に飛び込んだ途端、惚けたような快楽は嘘のように消え失せ、レオノアーヌは顔をしかめると地面に転がったいびつな死体の欠片に視線を落とした。
「…こいつぁ─────…」
ぐるりと視線を周囲に走らせる。
レオノアーヌはチェラータのバイザーをぐいと上に上げると、鋭い声で副官を呼んだ。
「各班に伝令を回せ。ここから即刻ずらかるぞ」
理由の説明など一切せず、そう言い放つレオノアーヌに、副官も余計なことは聞かず即行動に移った。
撤退は呆れる程素早く行われた。各戦場に散っていた傭兵達は、突然の命令にも何一つ動じることなく、各々の戦闘にケリをつけさっさとその場から引き揚げ始める。
それを、同じ戦場で剣を振るっていた紅燕騎士隊の隊員達は、驚愕とも憤怒ともつかぬ言いようのない感情と共に見送った。
決して共同戦線を張っていた訳ではない。作戦は個別に立てられていたし、そもそも正規軍の彼らにとっては、寄せ集めの傭兵集団と轡を並べるなどこのような非常時でなければ受け入れがたい屈辱ですらあった。──────にもかかわらず、さっさと戦場を後にする傭兵達にいいようのない憤りを感じたのは、国家の置かれた現状、そして目の前のランペール門を死守することの意味を知り抜いているためだ。
紅燕騎士隊の隊長は追いすがるオークの群れを刃の一薙ぎで斬り伏せると、ギリッと奥歯を噛み締め、レオノアーヌの後を追った。
「貴様ッ!! 待たんか!!!」
激情のままに放った声は戦場の空気を引き裂かんばかりの怒気に満ちていたが、レオノアーヌは顔色一つ変えず、無機物でも見るような冷たい瞳で振り返った。
「なんだよ」
めんどくさそうとしか言いようのない声色で聞き返す。
紅燕騎士隊長はカッと全身の血が沸騰するのを感じた。
「一体何を考えているッ!!! この状況で戦場を放棄するなど、………この門を護ることの意味くらい傭兵の貴様らにも分かるだろうが!!」
「…るっせぇな、この状況だからだろ…」
「どういう意味だ貴様ッ!!! 今しも敵の破城鎚がここへ到達しようとしているのだぞ、王都への門が破られてもよいというのか!? 金銭目当てに戦場にのさばるハイエナなら、せいぜいそれらしく手柄を漁ったらどうなんだ!!!」
ハイエナ呼ばわりされるのは彼にとっては日常茶飯事のことらしく、レオノアーヌはやれやれと両手を広げると溜め息をついた。
「おぅ、確かに金銭目当てだぜ? だからこそ、大事な金ヅルに沈まれちゃたまらねぇってな。」
「な? …それは、どういう………」
──────その時。
不意に周囲の空気が大きく歪み、その場からかなり離れた戦場のど真ん中で、全てを圧するすさまじい爆発が立て続けに起きた。
「なッ………」
紅燕騎士隊長が振り返る暇もなく、叩き付ける爆風。立っていられない程の衝撃にかぶさるように、さらに続く炸裂音。
ランペール門の正面で斬り結んでいた紅燕騎士隊員とオーク兵達が、連鎖的に続く爆発で、両軍共一瞬にしてほぼ壊滅状態になった。
「…やっぱりな。」
飛散する土くれや瓦礫をかざした片手でよけながら、レオノアーヌがニヤリと唇の端を持ち上げ、酷薄な笑みを浮かべる。
「な…貴様、一体なぜ─────…」
紅燕騎士隊長が呆然と呟く。
「──────来るぞ」
レオノアーヌの鋭い声は紅燕騎士隊長に向けたものではなかった。レオノアーヌはもうもうと巻き上がる白煙の向こうをひたと睨みつけている。
風がたなびき、白煙が少しずつ吹き散らされて視界が徐々に取り戻される。そして完全に煙が消えた時、地平を埋め尽くしていたのは、数えきれない程のオーク兵の群れだった。血風にはためくのは、何本も打ち立てられたグワッジボッジ"切り裂き"団の軍旗。
「フン、ありゃ"切り裂き"団翼下のジャックノック大隊か………。グワッジボッジ本隊は来ちゃいねぇようだな。陽動であらかたの戦力を削れるとでも思ったのかよ。」
レオノアーヌが唇を歪める。
チリチリと首筋の辺りの毛が逆立っているのがレオノアーヌには分かった………小競り合いを圧する理不尽で圧倒的な力の炸裂に、無惨に引きちぎられ散り散りに吹き飛んだいくつもの死体。硝煙と敵味方の血の匂いが肺の中に充満する。勝利を確信しているであろうオーク達は、牙を剥き臨戦態勢にある自分達の存在に気付いてはいまい。
ビリビリと音を立てそうな程に、張りつめた空気──────剣を振るう以上に強烈な快感を得られるのはこんな時だ。野生の勘ひとつで隊をあやつり、生死をくぐり抜けて、ついには戦局そのものを鷲掴みにし意のままに操る瞬間。レオノアーヌは全身をぶるりと震わせると、血なまぐさい戦場そのものに愛撫されているかのように、たまらない吐息を薄い唇から洩らした。
両手剣を背中からスラリと抜き放つ。来たるべき新たな殺戮と快楽の予感が、ぞろりと背筋を這い上がる。
レオノアーヌは両手剣の刀身を天に突き上げ、ズシリと腹に響く声を放った。
「オーッシ、こっからが稼ぎ時だ!! せいぜいサンドリアに恩を売って報奨金をたんまり巻き上げるぞ!!!」
猛狗傭兵団員が一斉に武器を抜き放ち、雄叫びで応える。
「待て、─────待て、貴様なぜ敵の作戦が分かった………」
追いすがる紅燕騎士隊長を、レオノアーヌは一蹴した。
「っせぇつってんだろ!!! 邪魔だ、どけッ!!!」
一瞬後には、そんな些細なやり取りのことなど綺麗に忘れ、先陣を切って敵の只中に斬り込んでいく。
────── 一刻後。
陽動作戦を見切った傭兵団が、ほぼ無傷の状態で襲いかかってくるとはやはり想定していなかったらしい。ジャックノック大隊は猛狗傭兵団にほぼ制圧され、無惨な死体をあちこちにさらけ出していた。
レオノアーヌは、足の下に踏み敷いたジャックノックの喉元に両手剣の切っ先を突きつけ、ニヤリと笑った。
ジャックノックは鎧ごと腹を切り裂かれ、既に虫の息である。
返り血にまみれ、壮絶な笑みを浮かべるレオノアーヌの姿は、戦局を圧した英雄と呼ぶにはあまりにも禍々しいものだった。
【貴様…、貴様の部隊はなぜ陽動に乗らなかった………。】
ジャックノックが途切れ途切れに息を吐きながら呟く。
レオノアーヌはフンと鼻を鳴らした。
【斬り込み部隊が死刑囚だらけなんざどう考えたって変だろ。もしやとは思ったが………しこたま爆弾を仕込んだ死刑囚の自爆を囮に使うとはな。相変わらずやり口がえげつねぇぜ、テメェは】
【………!? あれが死刑囚だとなぜ分かる? 人間である貴様に………?】
ゴフッ、とジャックノックが気道から溢れる鮮血を吐き散らす。人間であるレオノアーヌと獣人語で会話が成り立っていることの不自然さに気付くだけの余裕はないようだ。
【分からいでか。あの刻印を忘れられる訳ねぇだろ。】
レオノアーヌは自分の右腕のシックマフラを外した。
剥き出しにされる、古傷だらけの腕の肘に近い辺りには、オークの死刑囚の腕に刻まれていたものと同じ刻印があった。
徐々にかすんでいく視界にかろうじてその刻印を捉え、ジャックノックはレオノアーヌの姿をゆっくりと見上げた。
【貴様は…一体─────…】
【覚えてねぇのかよ。俺はテメェのツラを忘れたことはなかったんだがな。】
レオノアーヌはチェラータのバイザーを無造作に上げた。
ジャックノックは目を見開いた。
【…その、顔──────!!! 貴様は…】
【分かったら死にな。】
レオノアーヌは両手剣をまっすぐに振り抜き、ジャックノックの首を空高く跳ね飛ばした。
ごろごろと地面に転がる生首を見つめ、目を細めるとレオノアーヌは一瞬複雑な表情をその顔に浮かべた。だが、その表情はすぐに消え去せ、何事もなかったように顔を上げる。
「うっし、みんないい働きっぷりだったぜ!! なんか暴れ足りねぇし、もう一稼ぎしてくっか?」
陽気に声を放つレオノアーヌに、隊員達も歓声で応えた。
* * *
ラヴォール村
夜明け前、しんと冴え渡る静寂の中。
茜隼騎士隊長ヴェスティーレは、ラヴォール村のエリアを三分する川の最北にかけられた橋の程近くに身を潜めていた。
オークに占拠された北西集落に向かうルートは三通りある。エリア南端から川を遡り、中央島の横を抜けて北西に向かうルート。南西の集落を経由し、ぐるりと山道を迂回していく遠回りなルート。
あと一つがこの橋を渡るルートだ。ヴェスティーレの目の前にある橋が使えれば、ラヴォール村の入口から北西集落までは最短距離となるのだが、ジャグナーの戦いの折、この村へ攻め込んだオーク達の手により、北端のその橋は焼き落とされ、通行不可能となっていた。
飛び越えるには幅のありすぎる渓谷の向こう岸には、岩肌に囲まれた狭い通路を徘徊するオークの哨戒兵がいる。
ヴェスティーレはじっと身を潜めたまま、松明の炎に照らされたオークの鎧が放つ鈍い光と、その向こうに広がる闇色の空を睨みつけていた。
静寂が痛い。
不意にその静寂を、するどく甲高い音が引き裂いた。
ヒュッ、………
細く、しかし鼓膜を突くような音の後に、オレンジ色の鮮やかな光が上空はるかの高みで炸裂する。
仲間の打ち上げた照明弾だった。
「始めやがったか…」
低く呟くと、ヴェスティーレは右腕を高々と上げた。
さっと腕を振る、同時にヴェスティーレの背後に潜み長弓を構えていた茜隼騎士隊の隊員達が、一斉に渓谷の向こう岸に矢を撃ち放った。
突然の奇襲に、オーク兵達に動揺が走る。
ヴェスティーレは再度右手を大きく振った。地面に打ち立てた巨大な丸太を支え、その合図を待っていた隊員達が、掛け声を放ちつつ丸太を渓谷に向けて倒す。太く巨大な丸太は地響きを響かせながら、向こう岸の岩肌にその先端を打ちつけた。
続いてもう一本の丸太が倒される。渓谷の両岸を繋ぐ即席の橋ができあがった。ヴェスティーレはさっと立ち上がると剣を抜き放ち、鋭い声を放った。
「乗り込むぞ野郎共ッ!!! 鉄羊騎士隊に手柄を渡すんじゃねえぞ!!!」
「オオッ!!」
三方向からの同時奇襲作戦が功を奏し、夜が明ける前にはオーク軍の制圧は完了していた。
茜隼騎士隊は血生臭い匂いともうもうたる煙の立ちこめる北西集落で、残り二方向からの奇襲を担当した鉄羊騎士隊と合流した。
「ご協力痛み入ります。ロンジェルツ卿」
剣を鞘に納めつつ、ヴェスティーレが声をかける。
王都に帰還する途中で作戦に参加した鉄羊騎士隊の隊員達は、事後処理を茜隼騎士隊に任せ、早くも帰還の準備を始めていた。
ロンジェルツはヴェスティーレの言葉に頷くと、無惨に崩壊し、ぶすぶすと黒煙を噴き上げる家屋を怪訝な面持ちで睨みつけた。
「解せんな…。こうもあっさりと拠点を明け渡すとは………」
「確かに。報告にあった有翼のデーモン族の姿もありませんでしたな。」
ヴェスティーレも周囲を見渡す。
「頑なにここに立て篭っていたのは何の為だったのか、捕えた捕虜から何か聞き出せるとよいのですが。」
「フン、豚共の忠誠心などたかが知れている………。おのが身を護る為なら喜んで尻尾を振るだろう。」
「そうですな…」
「隊長!!」
北端の家屋を調べていた茜隼騎士隊の従騎士が駆け寄ってくる。
「どうした」
「我が軍の捕虜を発見致しました。北の家屋の中に二名」
「む、無事なのか?」
「それが─────」
従騎士は力なく首を振った。
「二人共すでに事切れています。」
「…そうか…」
ヴェスティーレはギリッと唇を噛んだ。
「敵の捕虜の身柄は我が隊が預かろう。我らはこれから王都へ報告に向かうゆえ」
ロンジェルツはそう言うと、ヴェスティーレの顔を見据えた。
「貴下の隊はこのままラヴォール村に駐屯するのであったな? 今回の一件、どうもキナ臭い………。心して任にあたられよ。」
「ご忠告感謝します」
ヴェスティーレの敬礼に同じく敬礼で返すと、ロンジェルツは踵を返し、その場を離れた。
村に残った茜隼騎士隊は、事後処理と村の復興支援に忙殺された。
オークの死体を風下の砂地に集めて焼き、同胞の亡骸は修道士達に手厚く弔ってもらう。遺体の引き取りを願う遺族のいることは分かっていたが、ジャグナーの戦い以降おびただしい数の死傷者が出ている王国の状況を顧みると、それも難しかった。
弔いが済み、橋の修復や倒壊した家屋の解体のために部下達が散っていくのを確かめると、ヴェスティーレは一人中央島の修道院へと向かった。
奇襲作戦の折、ヴェスティーレは右の上腕部に敵の槍による創傷を負っていた。といっても大袈裟に騒ぐ程のものではない。村の病院はジャグナーの戦いに巻き込まれ負傷した多くの村民で溢れているため、医師の手を煩わせるには忍びなく、修道院で薬と包帯をもらうと、ヴェスティーレは中央島の裏手の草地に腰を下ろし、一人手当を始めた。
「…あの、よろしければ手当をさせていただけませんか」
背後から若い娘の声がする。
不器用に包帯を巻いていた左手を止め、振り返ると、鮮やかな赤と黒の踊り子の衣裳を身にまとった娘が、木立の陰から顔を覗かせ心配そうにこちらを見つめている。
ヴェスティーレはかぶりを振り、
「気持ちはありがてえが、オレなら大丈夫だ。オレよりもっと治療を必要としてる村民がいるだろう…、そっちに行ってやんな」
「いえ、あの、わたし今休憩をいただいたところで………病院でしたら、仲間が交代で患者さん達を見ているので大丈夫です。」
娘はヴェスティーレの返事を待たず、すっと歩み寄ると、ヴェスティーレの手にしていた巻きかけの包帯を手に取った。
「おい……」
娘が手慣れた手つきで包帯を巻き始める。ヴェスティーレは諦めて娘に手当てされるに任せた。
「オーク達はまたやって来るでしょうか?」
娘が語尾を振るわせつつ呟く。
「さぁな…。ジャグナーの戦い以降ここら一帯はキナ臭いままだ、一応村から駆逐したとはいえ安心はできねえだろうな。」
「わたし、心配でならないんです。何日か前にも、鉄鷹騎士隊のラジュリーズ様が、お供の方と共にここに見えられて、敵の様子を探りに行かれたままお戻りになりませんし………」
「ラジュリーズが?」
よく知った名前を耳にし、ヴェスティーレが眉を上げる。
ラジュリーズとは顔を合わせれば悪態をつきあう仲である。同じ旗の元に剣を振るう者同士だが、戦友というよりは悪友に近い。
「はい。万一戻らなくとも絶対に探しには来るなときつく言い聞かせられましたので、後を追いこそしませんでしたが、もう幾夜もお戻りになられないまま………わたし、御身に何かあったのではと………隊長様、何かご存知ではありませんか?」
小さい肩を震わせて自分を見上げる娘を見て、ヴェスティーレは一人合点がいった。
この娘が手当てを申し出たのは、どうやらラジュリーズの身を案じてのことらしい。自分がラジュリーズと旧知の仲である事を、誰かから聞き知ったのであろうか。
ヴェスティーレは娘の姿を改めてよく見直してみた。顎の長さで切りそろえられた、夕日色の髪。驚くほど白い肌、吸い込まれそうに大きな瞳。──────娘はヒュームだった。もともとエルヴァーン族の村であったラヴォール村に住み着いているヒューム族は少ない。おそらくは、戦災に巻き込まれ、修道院に引き取られた孤児の一人だろう。
それにしても、とヴェスティーレは、娘のくびれたウエストを引き立たせる踊り子の衣裳を横目に見ながら、内心ひとりごちた。
──────あいつばかりが、なぜモテる。
「…隊長様?」
娘の声にヴェスティーレは我に帰った。
「あ? …あぁ、ラジュリーズな………さあなぁ、オレも王都防衛戦以来、アイツにゃ会っちゃいねえし………」
そこまで言うと、ふと、ヴェスティーレは口をつぐんだ。
「まてよ…」
「………?」
「敵の様子を探りに行った─────、さっきそう言ったな?」
「? は、はい…」
「それはここラヴォール村でのことなんだな? まだオーク軍の残党が駆逐される前に?」
「そうですが………」
「…おかしいじゃねえか」
ヴェスティーレは立ち上がると、うろうろと歩き回りながら、
「オレら二部隊が今回の掃討作戦を命じられた時、そんな話は一言も聞かなかった─────ラジュリーズが来てただと? 一体何しに? クスロー卿が知らなかったとも思えねえ、だったら何でオレらになんも言わねぇんだ………」
「あ、あの、隊長様─────」
「しかも姿を消したと言ったか?」
ヴェスティーレの声色は知らず知らずのうちに険しいものとなり、それをぶつけられた娘がびくっと身体を震わせた。
「あ、……すまない」
ヴェスティーレはあわてて声のトーンをやわらげると、
「オレは、─────少なくともオレは何も知らねえな。残念ながら」
「そうですか……」
がっくりと肩を落とす娘に、ヴェスティーレは慰めの言葉をかけるべきか迷ったが、………とりあえず今は、それよりも先に確かめねばならぬことがある。
「なぁ、…そのことを知ってる者はこの村にどれぐらいいるんだ? ラジュリーズが来てたってことをさ」
「そうですね…、修道院の院長さまと、村長さま、あとはわたしと、わたしの所属する舞踏団の団長くらいです。」
「そうか。その者達と会うことはできるか?」
「はい。皆さま村の復興に奔走していらっしゃるので、一堂にお集めするのは難しいかもしれませんが…」
「別々で構わないさ。できればセッティングしてもらえるとありがたい。」
「分かりました。ここでお待ちください。舞踏団の団長ならすぐにお連れできると思います。」
「恩に着るよ」
しなやかな身のこなしで坂道を駆け下りて行く後ろ姿に、ヴェスティーレは思わず声をかけた。
「その、………ラジュリーズのことなら心配すんな。アイツは殺したって死にゃしねえ男さ。」
娘は振り返ると、気丈に微笑んだ。
該当する人物からそれぞれに話を聞き終え、茜隼騎士隊のテントに戻ったヴェスティーレは、外の喧噪が耳に入らぬかのように一人黙り込み、思案にふけっていた。
三人の、そしてさきほどの娘の話の内容に、大して差はなかった──────捕われた捕虜を救い出すと言って現れたラジュリーズ。連れていた仲間はわずか一人だったらしい………話を聞かせてくれた者達は一様に従者だと思っているようだが、話を聞く限り、ヴェスティーレにはそれが鉄鷹騎士隊の隊員だとは思えなかった。
おそらく捕虜の救出は失敗に終わったのだろう。北の家屋に放置されていた二名の死体がそれを物語っている。
そして、………そのあと何があったのだろうか?
『万が一戻らなくても決して探しには来ないように』──────全員に言い含められていたその言葉。
何かが起きることが、ラジュリーズには分かっていたのだろうか。
(なんかヤバい事にでも巻き込まれたか? 今どこにいるんだ、ラジュリーズ………)
* * *
石畳の閲兵場を靴音も高らかに、ドラギーユ城へと歩を進めていたロンジェルツは、城門へと続く跳ね橋のやや手前で自分を待ち構えている者達がいることに気付いた。
「赤狼騎士隊はバタリアへの出動命令が下されていたように思うが?」
冷ややかな目でロンジェルツが言う。
それには答えず、赤狼騎士隊副隊長ローランはロンジェルツを睨み据えた。
「お答え頂きたい、ロンジェルツ卿─────」
硬い声色には脅すような響きがある。
「我らが隊長をラヴォール村で見かけた者がいるという噂は真実か?」
ロンジェルツはフンと鼻を鳴らすと、吐き捨てるように言った。
「所詮、将無きぬしらは烏合の衆か。………」
「何を言われる!!!」
気色ばむ隊員達に、ロンジェルツが落雷のごとく一喝する。
「ぬしらが将を求むるは何の為ぞ!! 双獅子の赤旗を担い、王国の礎たらんと欲するが故ではないのかッ!! 只一人を求むるが故に、与えられた任務を放棄する貴様らを烏合の衆と呼ばずに何とする!!!」
「何を……!!」
「言わせておけば!!!」
剣呑な空気が漂った、その時、
「お待ちください、どちらも、どうか─────」
やわらかい声が、しかしきっぱりと、その場の空気を断ち切った。
鉄羊騎士隊の従軍司祭パラルデフォーだった。
「われらはみな等しく暁の女神のご加護賜りし兄弟です。未曾有の国難を前に、連獅子の硬盾たるあなたがたが諍いを起こされては、国は、民はどうなりましょうや?」
優雅な仕草で指し示してみせるその先には、いまだ満足な治療を受けることも叶わず、寒空の下で震えている負傷兵達の姿がある。
赤狼騎士隊の隊員達の間に、わずかな戸惑いの色が浮かんだ。
「半年もの長きに渡り、将の帰りを待ち続けたあなたがたの忠誠。その揺るがぬ忠誠こそが、ミュゼルワール卿の偉大さを現わしておられます。その偉大さもまったき忠誠も、どちらも王国には必要不可欠なもの─────何か仔細が分かりましたら必ずやお耳に入れると誓いましょう。どうか今は………わたくしの顔に免じて、この場は耐えていただきたく」
始終穏やかな口調であったにもかかわらず、パラルデフォーの言葉に気圧されたかのように、赤狼騎士隊の面々は表情を改めた。ロンジェルツにはじろりと一瞥をくれつつも、しぶしぶその場を去っていく。
「フン、相変わらず口だけは巧いな。」
去っていく隊員達などすでに眼中にないロンジェルツが、城門を見上げつつ言った。
「おからかいあそばされては困ります、ロンジェルツ隊長。火に油を注ぐという言葉をご存知ないわけでもございませんでしょうに。」
「真綿で首を絞めるような貴下のやり方を真似ろと言うのか?」
ロンジェルツの言葉に、パラルデフォーはにっこりと微笑んだ。
「とんでもない。隊長殿が叩き落とし、わたくしが持ちあげる。とてもすばらしいタッグだと考えます」
呆れたように首を振るロンジェルツに、パラルデフォーがくすくすと笑う。
「さて、ああは申し上げましたものの………いかがなさるおつもりですか。我が鉄羊隊の隊長殿への忠誠心も赤狼隊に勝るとも劣らぬもの、よもや口外する者もおりますまいが─────…」
「何のことだ…。我は余計な事は何も見聞きしておらんぞ」
パラルデフォーは頷いた。
「わたくしもでございます。」
ロンジェルツの半歩後ろを静かに歩みつつ、パラルデフォーは遠く夕闇にかすむ大聖堂の尖塔を仰ぎ見た。
「暁の女神よ、かの三人の迷える者たちに、どうか祝福と導きの光を──────…。」
* * *
覚醒は唐突だった。
レオノアーヌはばちりと目を開けると、勢いよく頭を振り仰ぎ、ギラリと光る眼光を鋭い瞳から放った。
全身の筋肉が臨戦状態の緊張で引き締まる。みなぎる殺気に両眼が吊り上がり、ギリッと噛み締めた歯の間から獰猛な呼気が洩れる。
視界に入るもの全てを切り裂かんばかりのすさまじい視線を辺りに投げつけたレオノアーヌは、──────しかし、
「……んあ……?」
怪訝そうな声を、その唇から発した。
状況が──────把握できない。
ほんの一瞬前まで、自分は確かにジャグナーにいた。
目の前には、地に打ち据えられたミュゼルワールと、
宙に浮かび、まるで全てを掌握しているかのような口調でものを語る赤黒いモンスターがいて──────
(なんだ? …何がどうなってるッ!?)
時間の経過の感覚がレオノアーヌの身体から完全に抜け落ちていた。ノスフェラトゥの口から怪しげな呪句が洩れ、四肢の自由が利かなくなった──────心臓が破裂しそうに跳ね上がり、思わず膝をつく。
そして、瞬きをしたらこれだ………ここはどう考えてもジャグナーの森の中ではない。
冷静に考えれば、自分の置かれた状況を判断することも可能だったろう。しかし、冷静になれない原因がレオノアーヌの体内を狂おしいばかりに吹き荒れ、爆発しそうな勢いで渦巻いていた。
………怒り、だ。一瞬前までノスフェラトゥに向けられていたすさまじい憤怒が、不意にその矛先を奪われ、出口を求めて体内を滅茶苦茶に駆け巡る。
レオノアーヌは突き上げる感情のままに唸り声を発すると、握りしめた拳を振りかざし、勢いよく身体を起こしかけた。しかし、甲高い金属音が無情に響き、身体の動きが途中で止まる。手首にも足首にも重い鉄の枷がはめられ、短い鎖で壁に固定されていた。自由になる動きがわずかしかないと知ると、ただでさえ抑えがたいほどの怒りが不意に臨界点を越えた──────爪の先から血がにじむほどきつく拳を握りしめると、レオノアーヌは牙を剥き出し、開け放った口から獣のような咆哮を放った。張りつめる鎖を引きちぎらんばかりに、膨れ上がる筋肉に渾身の力を込めて暴れる。
立て続けに鎖の立てる甲高い音が、周囲の壁に虚ろに吸い込まれた。………時折ポタリと、血や汗の雫が床に弾けるかすかな音。
ひとしきり暴れた後、力を使い果たしたレオノアーヌは、ようやく静かになった。
鎖を引きちぎれるなどと本気で思っていたわけではない。どうにかして怒りを外に吐き出さないことには、冷静になどなれないと分かっていたのだ。
こめかみから顎へと幾筋も汗を光らせ、はッはッと荒い息をついていたレオノアーヌは、高鳴る鼓動が徐々に収まってきたのを感じると、首を思い切り仰け反らせ、大きく息を吐き出した。
(あ〜〜〜〜〜〜〜、…痛ってェ)
シックブリーチズにシックソルレットと、下半身は一式装備が残っていたが、上半身は鎧を全て剥ぎ取られ、チェラータもなくなっていた。剥き出しの手首は、暴れたせいで皮が裂けるどころか鉄の枷が肉にまで喰らい込み、えぐれた傷口から鮮血をにじませている。
(……阿呆みてぇ。せっかく無傷だったっつーのによ……)
そもそも、このノスフェラトゥに対するどうしようもない怒りの原因はなんなのか。ノスフェラトゥは確かに敵だが、敵と言えば自分は今まで、数えきれない程の敵と対峙してきている。戦慄、高揚、あるいは悦楽──────戦う時の感情は様々だが、怒り………というのは自分にはあまりなかったような気がする。
しばらく原因を考えていたレオノアーヌは、やがて思い至った結論に我ながら嫌気がさし、忌々しげに舌打ちした。
(………悪りィのは全部あの野郎だな。うん。)
プラチナシルバーの髪を思い浮かべ、自分に言い聞かせるようにうんうんと頷く。
──────そんな戯れ言聞くんじゃねぇ!! お前は人間だ!! 戦う意志を捨てねぇ限りはな!!!──────
思わず思い出してしまった自分の台詞に、レオノアーヌはぐあ〜〜と頭を抱えた。
(最ッ悪だ、あ〜サイアクだ………誰の台詞だよ誰のッ!! それもこれもダンナの悪影響だ。ダンナとアイツが全部悪りィ!!!)
そういやラジュリーズはどうしてるだろうか…、と殊勝な考えがほんの一瞬脳裏をよぎったが、ささやかな仕返しに気にしてやらないことにする。
アイツのことはいわずもがな…だ。
レオノアーヌはなかなか血の止まらない傷口を見上げると、溜め息をつき、鎖に吊るされた腕を顔の高さに下ろした。
原因は分からないが、自分のMPが底をついていることにレオノアーヌは気付いていた。両の手首をそれぞれ縛める枷につながれた鎖はかなり短く、腕を自由に動かせる角度は限られていたが、首を思い切り伸ばし、舌先を突き出すとどうにか手首の傷に触れさせることができた。
(舐めて治すなんざ十何年ぶりだっつの………)
思いつつ、血の味が口中に広がるのも構わずに、傷口をぺろぺろと舐める。
舌先がこすれるたびに、裂けた皮膚に鋭い痛みが走る。生きている証だとレオノアーヌは低く笑った。両手首とも念入りに舐め終わり、血まみれの口中からペッと唾を吐くと、レオノアーヌは全身の力を抜き、壁に背をもたせかけた。
さて、──────これからどうするか。
その時初めて、レオノアーヌは自分の拘束された狭い部屋の中をぐるりと見回した。
(やっぱ、捕まった─────んだよなぁ、これは…)
今更のように自問する。
鉄格子のはめられた薄暗い牢獄。天井は高いのだが、三方向を取り囲む壁は圧迫するように狭く、あちこちにどす黒い染みが飛び散っている。おそらくは血痕だろう。
鉄格子の向こうは通路になっており、その通路を挟んだ向かい側にはやはり同じような牢獄が見える。
牢獄の中の唯一の光源は、床に据えられた二本の巨大なトーチから揺らめく炎だ………風もないのにユラユラと揺れるその灯りは、レオノアーヌの横顔をぼんやりと照らし、汚れた床に揺れる影法師を作っている。
その影法師の伸びる先には一台の頑丈な木のテーブルがあった。その上に乱雑に並べられた拷問器具を見て、レオノアーヌはフンと鼻を鳴らして笑った。
ふと、聞こえるか聞こえないかの小さい羽ばたきが耳元をかすめる。
かすかに空気が揺らぎ、顔を上げると、目の前に一匹の黒いコウモリが浮かんでいた。
どこから入り込んだのかと、いぶかしむ間もなく──────
コウモリの姿が闇に溶け、黒い霧が広がったかと思うと、不意にその霧が密度を増し、巨大な翼を持つモンスターの姿を形作っていった。
「へッ、考え事をする時間もくれねぇのかよ………」
レオノアーヌは目を細め、不敵に笑った。
【便利な能力だな。どうせならえろキレーなねーちゃんにでもなってくんね?】
世間話でもするような口調でレオノアーヌが軽口を叩く。
その姿を完全に現わしたノスフェラトゥは、心底聞くに耐えないといった風情でゆっくりと首を振った。
【如何にも家畜らしい口のきき方だ………。公爵の命令さえ無くば、すぐにでも引導を渡してくれようものを。】
【えっらっそーに。家畜呼ばわりすんじゃねえよ、コウモリ野郎が】
レオノアーヌの挑発に、ノスフェラトゥの体からユラリと妖気がたちのぼる。
【下郎め…。誇り高き闇の血族を愚弄するか─────】
ノスフェラトゥは巨大な翼を震わせると、レオノアーヌの喉元を左手で掴み上げた。そのまま身体を宙に吊り上げ、壁に叩き付ける。
ガシャリと鎖が耳障りな音を立てた。レオノアーヌが身を折って激しく咳込む。
【其の方ら人間は我らを生かす為の生贄に過ぎぬ─────…。このように脆い造りで、如何に抵抗しようと言うのだ?『爪をかけられればたやすく破れる皮膚、砕けやすい四肢の骨……… 』、まさに公爵の言う通りではないか。】
【その人間相手に手こずってんのはどこのどいつだよ。】
【手こずる…? 我がか? はて、覚えがないな。】
ノスフェラトゥは再びその姿を闇に四散させると、今度は人間の姿に変わっていった。
【公爵の命ずる通り、其の方ら二人は難なく回収できたが? 邪魔をするこの男は我が手にかかり、既に散ったしな】
【な…んだと─────?】
そこにいるのは、ラジュリーズの姿──────。
目を見開いたレオノアーヌは、しかし、すぐに表情を崩し、馬鹿馬鹿しいと首を振った。
【ケッ、くっだらねぇ…ダンナがそんな簡単に殺られるわけねェだろ。】
【クク………、まぁ、そう思いたければそれでもよい………。】
ノスフェラトゥが笑う。その声はラジュリーズの声そのものだ。
【其の方ら人間は、家畜を躾ける時にどうするのだったかな─────】
言いながら、ラジュリーズの長身が木のテーブルに近付き、煩雑に並べられた器具のいくつかに手を触れる。
ラジュリーズは一本のロウソクを手に取ると、トーチから燃え上がる炎の先にかざし、火の点いたそれをテーブルの真ん中に置いた。カチャカチャと器具の触れる音がする。レオノアーヌに背を向け、テーブルの上で何事かを成しながら、ラジュリーズの声が言った。
【その小うるさい口を封じたとて儀式そのものに影響はあるまい─────。案ずるな、命まで取りはせぬ】
【あんたほんッとダンナのことなんも分かっちゃいねぇよな…。その顔と声で凄まれたって緊張感のカケラもねぇっつの。似合わねんだよ、ダンナにそーいうのは】
【ほう…。では、これならばどうだ…?】
レオノアーヌに背を向けたまま呟くラジュリーズの夕焼け色の髪が、不意にその鮮やかな色を失う。髪型も、身につけた物も、身体のシルエットそのものも変わっていく。
ゆっくりと振り返るその姿を見て、レオノアーヌは目を細めた。
【………似合いすぎってのも、どーかと思うけどな………。】
先端が真っ赤に焼けた太い鉄串を手に、レオノアーヌの前まで歩を進めたミュゼルワールが、揺れる銀髪の間から怜悧な顔をのぞかせる。
氷のように冷たい視線でレオノアーヌの顔を覗き込むと、ミュゼルワールはニタリと、口角をつり上げて笑った。
炎で真っ赤に焦がされた鉄の先端が、レオノアーヌの右肩の付け根に押し付けられる。
ジュッ…と肉の焦げる音が響く。ぶるっとレオノアーヌの全身が痙攣する。
ミュゼルワールは真っ赤に焼けた鉄を気が遠くなる程ゆっくりと動かし、レオノアーヌの剥き出しの胸に大きな斜めの線を描いていった。
焼けただれる肉の匂いが辺りに立ちこめる。
全身を硬直させたまま、レオノアーヌは唇を噛み締め、一切声を発しない。
【苦痛を与えられることに慣れた身体だな………】
ミュゼルワールの声がささやく。
レオノアーヌの褐色の身体には、戦場で負った幾多の創傷以外にも、一見してそれと分かる古い鞭傷が無数にあった。鉄串の先を再び炎に晒しながら、ミュゼルワールがその身体に視線を落とす。
レオノアーヌは瞼をこじ開けると、食いしばった歯の間から途切れ途切れに声を発した。
【俺…は………マゾじゃ、ねェんだ……ッ!! んなもん、慣れ…て………たまる…かよ………ッ!!】
クッと低く笑うと、ミュゼルワールはレオノアーヌの左肩の付け根にも焼けた鉄を押し付けた。
「ッ、─────」
声を発すまいと再び唇を噛み締めるレオノアーヌをあざ笑うかのように、胸の上にゆっくりと斜めの線を引いていく。先に負わせた傷と交差させ、大きな斜十字の焼けただれた傷跡をその胸に残した。
うつむいたまま、レオノアーヌが大きく肩を上下させる。
【痛みなど一瞬だ…、其の方らの感じる痛みなど………。永遠の時を生きる我らの前では、ほんのいっとき立ちのぼり消えてゆく煙の様な物に過ぎぬ………。】
ミュゼルワールの声で、ノスフェラトゥが呟く。
【あぁそうかよ……ッ】
大量の汗を床に落としつつ、レオノアーヌが口を開いた。
【永遠の時を “生きる” だと─────? てめェらのそれは “生きてる” とは言わねぇだろうが。俺ら人間はな、腹一杯メシ食ったり、女を抱いたり、傷の痛みにのたうち回ったりしながら、“生きてる” って事を実感すんだよ。てめぇらはただの死人だ。永遠に得たのは命なんかじゃねぇ、コキュートスの氷土から二度と抜け出せねぇ不自由な体だけだろうが!!】
【…コキュートス、か…?】
ミュゼルワールが興味深そうにレオノアーヌの顔を覗き込む。
【コキュートスを語る人間などかつて見たことがない─────。其の方、なぜその言葉を知った?】
【ヘッ、話す義理はねぇな…】
ミュゼルワールは思案気に視線を巡らし、
【コキュートスを知る人間………、そしてその流暢な獣人公用語─────。ふむ…、やはり面白い。公爵も戯れに其の方を欲した訳では無いようだな。】
【誰が誰を欲したって!? 気色悪りィこと抜かすんじゃねぇッ!!】
気色ばむレオノアーヌに、ミュゼルワールは唇を歪めて笑った。
【威勢のいいことだな─────ならば其の方。其の方の言うコキュートスの氷土に堕ちてみるか?】
不意に顔を近づけ、ミュゼルワールがレオノアーヌの首を掴む。
【離しやがれ……ッ】
【永遠に得られるものが不自由な体のみかどうか、自身の身で確かめてみたらどうだ…】
大きく口を開く──────二本の鋭い犬歯が剥き出しになる。
【や……めろ】
レオノアーヌが顔を仰け反らせる。
【やめろ!!!】
レオノアーヌは思わず瞼をきつく閉じた。
しかし、不意に興味を失ったように身体を離すと、ミュゼルワールはその姿を闇に溶けさせ、ノスフェラトゥ本来の姿形に戻った。
【愚かな─────…】
蔑んだ瞳でクックッと笑う。
【我は誇り高きヴァンピール族最古の血筋の継承者ノスフェラトゥなるぞ─────。純血種たる我の血を分け与えるは真に選ばれた者のみ。其の方のような野蛮な輩を血族の末席に加えるなど言語道断よ………。】
ノスフェラトゥは鉄格子の外を顧みると、ゆっくりと声を放った。
【これはお前の獲物だ、ミュゼルワール………】
鉄格子の鍵が外される甲高い音がする。
手首を胸の前で拘束され、猿ぐつわを噛まされたミュゼルワールが、二体のオークにひったてられてレオノアーヌのいる牢獄に押し込まれた。
ミュゼルワールは意識が朦朧としているようだった。………いや、気を失っているのだろうか? その身体はオークの手を離れると、そのまま力なく床に崩れ落ちた。
ノスフェラトゥが手を伸ばし、ミュゼルワールの猿ぐつわを外す。
ミュゼルワールは低く呻き声を上げ、かすかに目を開いた。
【敢えて人の血は与えずにおいたのだ、ミュゼルワールよ─────そこな者をそなたの生命の糧とするがよい。我はそなたの覚醒を待っている………】
ノスフェラトゥの姿が、音もなく闇に溶けて消えていく。オーク二体も牢獄を後にし、鍵の閉まる重い音が響いた。
レオノアーヌは、ゆっくりと起き上がるミュゼルワールの姿を複雑な面持ちで見下ろした。

