天を刺す梢の上方、二股に分かれた木の幹の上に、片膝をつく男が一人。
地上三ヤルム半はあろうかという高い位置で葉陰に身を潜ませ、完璧に気配を消したその姿は、伝説に聞くニンジャの姿に見えないこともない。──────赤と黒の派手な衣裳がなければだが。
男が潜む巨木の下では、複数の騎士団員がチョコボに跨がり、メシューム湖方面に向けて黙々と移動している。
隊の半ば辺りに、拘束されチョコボに乗せられたラジュリーズの姿があった。木の上の男は無意識のうちに親指の爪を噛みながら内心呟いた。
(あの連中はどう見ても神殿騎士団員………。なぜラジュリーズが神殿騎士に拘束されてるの?)
ゆっくりとかぶりを振った時、耳元のパールがほんのかすかに音を立てた。男が目を見開き、瞬時に別の枝へと飛び移る。
騎士隊を率いているらしき黒髪のエルヴァーンがチョコボの歩みを一瞬止め、純白の法衣を揺らしながらジロリと宙空を見上げた。
深紅の死鳥が一羽、乾いた鳴き声を放ちながら東へと飛び立っていった。エルヴァーンは視線を前方に戻し、移動を再開した。
(…あっぶない!! ったく誰よ、こんな時に!!)
騎乗した一団から十分に距離を置いた男は、下唇を噛みしめつつパールの回線を開いた。
《何かご用かしら》
《マヤコフ殿か。今どこにおられる?》
茜隼騎士隊のアルノーの声だ。マヤコフは目を細め、チョコボの一団が向かう進路を確認しながら口を開いた。
《ジャグナー森林ですわ。そちらも森におられるのではなくて?》
《うむ、その通りだ。貴殿が望むので単独行動を許したが、獣人共がいつ何どき現れるとも限らぬ。やはり御身が心配でな。》
《お心遣い感謝いたします。さすがはヴェスティーレ様の隊のお方、あたくしがヒュームだからといって鼻をつまんだりなさらぬのですね。》
《なに、ラヴォール村に長く駐屯すればそのような見識も薄れていくというものです。村の復興に向けての貴殿の尽力は並々ならぬものがある。我らも見習わねばと日々襟を正す思いですよ。》
アルノーの声はやけに快活で危機感のかけらもない。ラジュリーズが拘束されたことを知らされていないらしき口ぶりに、マヤコフは眉をひそめた。
《そうおっしゃって頂けるとわたくしの努力も報われますわ、アルノー様。》
《ところで、貴殿の素晴らしい舞についてだが。あれはどなたに師事されたのかな? 失礼だがあの村に舞を教えられる者などいないように見受けられるが》
法衣のエルヴァーン率いる一団が視界の端から消えようとしている。マヤコフは小さく舌打ちすると、ザッと梢を蹴り宙に身を躍らせた。張り巡らされた木の枝から枝へと続けざまに跳躍し、足を地につけることなく高速で移動していく。
《踊りの基礎はあの村で教わったものではございませんわ。わたくしあの村で生まれたわけではありませんのよ。》
《む、……そうであったか。すまぬ、ぶしつけな質問だったな》
《どうかお気遣いなく。両親を失うまでバストゥークに籍を置いていた孤児はたくさんおりますもの》
《ううむ、我としたことが失言であった。なにとぞお許し願いたい》
マヤコフは溜め息をついた。続きの言葉が何となく想像できたからだ。
お詫びといってはなんだが、と有りがちな前置きと共に食事の誘いを切り出すアルノーの名を、マヤコフは舞踏団の脳内顧客リストに書き加えた。
つかず離れずチョコボの一団を追っていたマヤコフは、王都に向かうと思われた彼らが途中で進路を反転し、バタリア丘陵へと続く北東の山沿いの道を歩み始めたことに気付いた。
(バタリアにはオーク軍の本隊が陣を敷いているはず………なぜ王都に向かわずバタリアに?)
マヤコフは上機嫌で過去の武勇伝を語り出したアルノーの声をそっと遮った。
《…アルノー様。ヴェスティーレ様はラヴォール村に到着されましたか?》
話を遮られても特に気分を害するでもなく、アルノーが答える。
《いや、いましばらくかかるらしいとのことです。隊長に何か御用事でも?》
《そう……ですわね………、いえ、特には。お戻りでないのならよろしいですわ。》
(ラヴォール村で急変があったと見るしかないわね…。ヴェスティーレ様はこのことをご存知なのかしら)
マヤコフは騎士隊を率いていた法衣の男の冷えきった眼差しを思い出し、ぶるっと肩を震わせた。
(奴らはラジュリーズをどうするつもりなの? そもそも、拘束の理由は? 茜隼騎士隊はアテにならないし、独自に情報を集める必要がありそうね。もしあれが本当に正規の神殿騎士なら、王都の兵士達だって迂闊には信用できない…慎重に動かなければ。)
自分の種族のことも念頭に置かなくてはなるまい。王国に帰属しているとはいえ、敵国の主要構成種族である自分が正規の騎士団を糾弾したところで、まともに取り合ってもらえるとは思えない。
(取り合ってもらうどころか、下手すりゃ監獄行きね、これは…。やれやれ、アンタの親友でいるのもラクじゃないわねぇ、ラジュリーズ)
パールをしまいながらマヤコフが唇を噛んだ時、視界の隅を移動していたチョコボの一団が不意に動きを止めた。
(ここは──────バタリアまではまだ距離があるじゃない。何をするつもりかしら?)
ジャグナー森林の最北端に位置するその場所は、北が切り立った岩壁、東はバタリア丘陵へと続く林となっている。この辺りまでくればアクティブなモンスターは存在せず、周囲にいるのは無害な樹人族の若木の群れだけだった。
法衣のエルヴァーンを乗せたチョコボが北の岩壁へと近付いていった。ひらりとチョコボから降りるエルヴァーンの眼前には、岩肌に大きく穿たれた巨大な石造りの扉がある。
法衣の懐を探り、黒髪のエルヴァーンは金色に輝く鍵を取り出した。地響きのような音を立てて扉が左右に開かれる。
再びチョコボにまたがると、法衣の男は先に立って扉の中に姿を消していった。ラジュリーズを乗せたチョコボが騎士団員に牽引され、後に続いていく。
ラジュリーズが上半身を大きく捻り、何か言葉を発したようだが、マヤコフの元までは届かなかった。
団員の全てが姿を消すと、扉は再び重い音を立てて閉鎖された。
* * *
再び六年前──────夕刻。
少女を連れてラヴォール村に到着したラジュリーズは、村で自警団を率いるマヤコフの元を訪れた。
自警団といっても、構成員は十代後半から二十代前半の若者のみである。その者達は皆、ラヴォール村の修道院に併設されている孤児院の出身者だった。
もともとラヴォール村はエルヴァーン族の村であるが、修道院が種族を問わず孤児を受け入れる方針を貫いたため、収容される孤児の種族構成は多岐に渡っていた。大まかに分けるとエルヴァーン六割・ヒューム三割・ガルカ一割といったところだが、エルヴァーンの孤児は里親にもらわれサンドリア本国に引き取られていくことが多い。成人を迎えてもラヴォール村に残る孤児は必然的にヒュームとガルカが多くなり、エルヴァーンの村を他種族の自警団が守るという一見奇妙な関係が成り立っている。
隠居した退役軍人から本格的な武術を教わることができるため、たかが自警団といえどもなかなか侮りがたい実力を彼らは持っていた。特にリーダーであるマヤコフは二十歳前後という若さにもかかわらず、訓練を積んだ軍人にも引けを取らないほどの舞闘と体術を身につけている。
少女を孤児院の一員にと連れてきたラジュリーズに、マヤコフは言った。
「いいの? ウチで受け入れたら最後、その子は二度と親元に戻れなくなるけど?」
ラヴォール村はサンドリア王国の属州に位置している。敵対するバストゥーク共和国の主要構成種族であるガルカやヒュームを快く思わない者は本国に多数存在するため、孤児院に入る者は王国への永属を誓う必要があり、バストゥーク民として生まれ故郷に戻る機会は永遠に失われるといってよかった。
それでも構わないと言い切るラジュリーズに、マヤコフは怪訝そうに眉をひそめ、
「なんで院長じゃなくアタシのとこに頼みにきたのかしら。」
「実はちと訳ありでな、この子はお前が見つけたってことにしといてほしいんだ。院長には事情を話して口裏を合わせてもらうつもりだが、まずはお前の承諾がねえとな。」
「フン、ヤバい任務の最中に拾ったってとこかしらね………。」
ラジュリーズが騎士団員としての務めを果たす傍ら、鉄鷹騎士隊の隊長である父の命令で軍の汚れ仕事を数多くこなしていることを、マヤコフは知っていた。マヤコフは不意にしゃがみ込み、少女のやせた顔を覗き込みながら、
「…それもお父様への反抗ってやつかしら?」
「──────…」
「まぁ、アンタのお父様も相当強烈な方だものね……。いいわよ、アタシは別に。自警団もいかつい野郎ばっかじゃ華がないと思ってたとこだし。」
「いらんだろ自警団に華は………。」
ラジュリーズが呆れたように首を振る。
「んまっ、聞き捨てならないわね!! アンタ何年アタシの友達やってんの? ─────美しく! しなやかに!! したたかに!!! 究極の強さは究極の美と共にあるものなのよ!?」
眉を吊り上げてみせるマヤコフに、ラジュリーズはこみ上げる苦笑をかろうじて押し殺した。
「わ〜かったわかった…」
「絶対に分かってないって顔よ、それは!! もういいわ、このお嬢ちゃんとアタシで究極の美を体現して、この朴念仁を見返してやるんだから!!」
ぽかんとしている少女に向かって憤然と言い放つと、マヤコフは腕をのばし、少女の頬を両手で掴んでむにっと左右に引っ張った。
いきなりのことに驚いたらしく、少女が火がついたように泣き出す。
マヤコフの手を振り払い、少女は一目散にラジュリーズの足元へ駆け寄ると、がっしりとした足装備に両腕を回し全身で引っ張りながら泣き叫んだ。気のせいだろうか、泣き声の語尾がしきりに上がり、何かを訴えかけているように見える。
「ふぅん、声が出ないわけじゃないみたいだけど……もとから喋れなかったのか、何かのショックで喋れなくなったのか、どっちにしても酷な話よねぇ。」
マヤコフは呟いた。
「──────この子はアタシが鍛えていいんでしょ?」
泣きつかれて眠ってしまった少女を見ながら、マヤコフが言う。
ラジュリーズは頷いた。
「ああ。今のままじゃどうにも無防備すぎていけねえ。万が一馬鹿な連中に襲われてもある程度は自力で切り抜けられるよう、みっちり仕込んでやってくれ。」
「馬鹿な連中、ね。」
マヤコフはふっと妖しげな笑みを浮かべた。
「……俺が襲うとは思わねェのかよ?」
マヤコフの突然の男言葉に、ラジュリーズの動きが止まる。
「──────お前にゃ無理だろ…。」
表情を変えずに、ラジュリーズは言った。
「なんでだよ。俺は両刀なんだぜ? 女相手に勃たねェとでも思ってんのか?」
ラジュリーズは挑発するように自分を見上げるマヤコフの顔からゆっくりと視線を外すと、穏やかな笑みを浮かべて肩をすくめた。
「…そうじゃねえよ。お前がオレの連れてきた女に手を出すはずねえだろ?」
──────まるで何事もなかったように、マヤコフの口調が元に戻った。
「…くぅ〜ッ!! ホンットいじめ甲斐のない男ねぇ!! あったまきちゃう!!」
両手を握りしめ、本気で悔しがってみせる姿に、フ、とラジュリーズが苦笑いを浮かべる。
少なくとも、少女がこの村で退屈することはなさそうだ。
時間のある時はなるべく顔を出してやろう。そんなことを思いながら、ラジュリーズはすやすやと眠る少女の頭をそっと撫でてやった。
《ラジュリーズ。…聞こえるか?》
突然の通信。
ヴェスティーレからだった。
すっと立ち上がるラジュリーズに、心得顔のマヤコフがひらひらと片手を振る。
ラジュリーズは少女を起こさぬようそっと身体を離すと、足早に家屋の外へと出た。
《オレだ。突然どうした?》
ヴェスティーレには、今の自分の任務が終わり、こちらから通信を入れるまでは連絡をよこすなと伝えてある。
何か緊急事態でもあったのだろうか。
《いずれはお前にも伝わるだろうが、早い方がいいと思ってな。──────お前のお父上が倒れたぞ。》
《親父が…?》
ラジュリーズは絶句した。
ふらりと、戸口から再び姿を現したラジュリーズを、マヤコフは怪訝そうな目でみやった。
「どうしたの?」
「親父が──────、 …倒れた。」
どこか魂の抜けた声。
マヤコフは眉をひそめた。
「これで何度目? そろそろヤバいんじゃないの?」
「医者からは……今度倒れたら、もう後はねえって言われてる……。」
ラジュリーズはぼすっとソファに身を埋めると、放心した視線を宙に投げた。
「いよいよラジュリーズ男爵様の誕生かしらね………。もう人前じゃ呼び捨てにできなくなっちゃうわねぇ。」
しみじみと呟くマヤコフに、ラジュリーズは虚ろな瞳を向けた。
「お前にまで敬語使われるようになるのかよ………、うんざりだな………。」
軽口を叩いてはいても、その顔は青い。
マヤコフはゆっくりと首を横に振った。
「早く行きなさいよ。間に合わなかったりしたら一生後悔するわよ。」
「──────あぁ…。この子のことは頼んだぜ………。」
「それは任せといて。…気を確かにね、ラジュリーズ。」
* * *
北サンドリア、ドラギーユ城内。
王立騎士団の作戦会議室に、いつになく重々しい空気が立ち込めている。
王都防衛戦における隊の壊滅の問責を受け謹慎中の紅燕隊隊長を除き、ほとんどの隊長がその場に集結していた。
王立騎士団本隊を束ねる老将、イルヴォレール・S・クスロー。
ジャグナーの戦いで壊滅的な打撃を受けたバタリア騎士団の団長から、伝統ある赤鹿騎士隊の隊長へと肩書きを変えた王国大騎士、アルフォニミル・M・オルシャー。
そのアルフォニミルと旧知の仲であり、やはり王国大騎士である鉄羊騎士隊長、ロンジェルツ・N・ディストー。
緋猪騎士隊長アシュメア・B・グライナーはやや落ち着かない素振りで重厚なオークテーブルの横に立っている。
入口に一番近い位置にヴェスティーレがいた。茜隼騎士隊の隊長に就任して間もない彼が作戦会議の場で口を開くことは少なく、じっと黙したまま周りの話に耳を傾けている。
議題は当然、その場にいない二人の隊長、ラジュリーズとミュゼルワールについてだった。
「ラジュリーズは王都に着いたのか?」
アルフォニミルが口を開く。アシュメアは顔を上げ、その問いに静かに答えた。
「ギュスターヴがつい先ほど神殿騎士団長ムシャン様の元に帰還の報告に向かったようです。ラジュリーズは彼らと共にいるはずですが、私の隊で彼の姿を確認した者はまだおりません。」
「我が隊もそれは同じだな。」
ロンジェルツが言い、目を細めて皮肉めいた表情を浮かべる。
「そもそも彼らは東門から堂々と入国してはおるまい。赤狼と鉄鷹の隊員共がああ色めき立っていては仕方のないことだがな。」
ロンジェルツの言葉に、アルフォニミルが呆れたように首を振った。
「情けない話だな………。そもそも主の潔白を信じるならばそのように取り乱す必要などあるまい。」
「事は我らが思うより遥かに厄介なのだ、アルフォニミル卿」
クスローが重い口を開いた。アルフォニミルの向ける怪訝な視線をクスローは受け止め、
「王都は先の防衛戦で多大な打撃を被り、その傷が未だ癒えておらぬ………。民も兵もオーク軍の動向に敏感になっているこの時期に、防衛の要である騎士団の一翼たるミュゼルワールの造反疑惑が持ち上がったのだ。事実を知った者達が騒ぎ立てるのも無理からぬことだろう。」
「………」
「なればこそ事が公になる前にラジュリーズを偵察に向かわせたのだが、裏目に出てしまったようだ。ラジュリーズまでもが敵軍に寝返ったとする神殿騎士団の主張は噴飯ものだが、ラヴォール村で何があったにせよ、ラジュリーズが我が軍の指揮系統から外れてしまったのもまた事実。」
クスローは腕組みを解き、テーブルに手をつくとその場にいる全員の顔をぐるりと見回した。
「仮にミュゼルワールが潔白だったとして、彼の嫌疑を晴らせるものがあるならば、それはラジュリーズが得たであろう何らかの情報をおいて他にない。だが、獣人共の蜂起と時を同じくしての此度の出来事──────そう簡単に事が収まるとは思えぬ。神殿騎士団は審問会を開きラジュリーズを徹底的に追及するつもりだろう。審問会は国教会と神殿騎士団が中核となり執り行う決まりだが、今回ばかりはそうもいっておられぬ。某は会に出席できるよう国王陛下にかけあうつもりだ。」
「そういえば、鉄羊騎士隊と茜隼騎士隊はラヴォール村に巣食っていたオーク共を掃討したのではなかったか? その際何体かの捕虜を連れ帰ったと聞いているが、そのオーク共から何か聞き出すことはできないのか」
アルフォニミルの言葉に、ロンジェルツがゆっくりと首を振った。
「信じがたいことだが、奴らは何を聞かれようと頑として口を割ろうとせん。豚共にもいっぱしの忠誠心はあるものと見える」
「忠誠心というよりは、狂信的な何かを奴らからは感じましたが──────刃を交えた時そうお思いになりませんでしたか、ロンジェルツ殿」
ヴェスティーレが静かに言った。ロンジェルツはふと目を細め、
「そういえば、豚共は我らを北西集落に近づけまいと躍起になっていたな。取り戻したところで焼け落ちた家屋以外何も見つからなかったが」
「ラヴォール村に、何かがあると──────?」
一瞬の沈黙が部屋を満たした。それまでじっと会話に聞き入っていたアシュメアが、意を決したように口を開いた。
「ラヴォール村の再調査をする必要があるのではないでしょうか」
その場にいる全員の視線がアシュメアの元に集まる。アシュメアはグッと唾を呑み込み、高まる緊張を無理に押し殺した。
「半年間行方の知れなかったミュゼルワールの目撃談、そしてラジュリーズの失踪。全てはラヴォール村で起こっています。オーク共があの集落の占拠に固執したことと、何か関係があるのでは」
アルフォニミルがゆっくりと頷いた。
「再調査に関しては賛成だな。確か茜隼騎士隊はまだあの村に駐屯中なのだろう? ──────だが、果たして調査を始められるかどうか………」
「と、いいますと?」
「我らの置かれた立場を考えてみたまえ、グライナー卿」
クスローが口を開く。
「ミュゼルワールとラジュリーズ…。我らの団は主力を二人も欠いており、そのうちの一人は謀反の疑いで審問会にかけられようとしている。何らかの鍵を握っているやもしれぬラジュリーズは、まさにそのラヴォール村に調査に赴いた先で行方を断ったのだぞ。ラジュリーズの身に何があったのか、明らかにならぬうちは他の者に同じ轍を踏ませるわけにいかぬ。」
「………」
クスローは眦に鋭い眼光をたたえ、その場にいる全員の顔を見据えた。
「各々方、それぞれに言いたいことはあろう。だが忘れるな。我が国は現在、獣人軍との全面対決という未曾有の事態のもとにある。何より優先すべきはこの国の安寧だ──────ラジュリーズの件に関してはこの老体に一時預け、まずはオーク軍の再来に備えて軍備を拡充してもらいたい。不穏な噂に浮き足立つ兵達のケアを怠らぬようにな。審問会については詳細が分かり次第追って伝えよう。」
* * *
作戦会議室を後にしたヴェスティーレは、大広間に向かう廊下の途中で壁にもたれるアシュメアの姿があることに気付いた。
「意外だったぞ、ヴェスティーレ」
アシュメアが何気ない口調で言う。王城内でアシュメアの方から声をかけてくることは滅多になく、ヴェスティーレは自分こそ意外だと言わんばかりに肩をすくめた。
「意外って何がだ?」
「先程の会議だ、随分と大人しかったじゃないか。お前のことだ、ラジュリーズの無実を主張してお歴々相手に一席ぶちかますものと思っていたが」
「オレだって馬鹿じゃねえ。自分の立場くらいわきまえてるつもりだ」
ふてくされたように返事を返すヴェスティーレを見てアシュメアがかすかに笑みを浮かべる。ヴェスティーレは怪訝そうに首を傾げた。
「…お前、わざわざオレが出てくるのを待ってたのか? 西ロンフォの塔で会おうとか言ってたろ?」
「そのことだが、ちと予定が入ってしまってな。塔には行けそうもないのでここで待つことにしたんだ。城のど真ん中で堂々と立ち聞きする者もおるまい、話をするのに差し支えはなかろう。」
「まぁ、オレは構わねえけどよ…」
ラジュリーズが連れていた男の正体は、神殿騎士団がすでに調査済みであることが今回の騒動で明らかになっていた。先だっての会話でアシュメアが言っていた通り、神殿騎士団が以前から目をつけていたレオノアーヌを伴っていたことが、ラジュリーズにとって不利に働いたのだろう。そうでなければ、王国の英雄たる騎士隊の隊長が疑われることなどそうそうない。
「ギュスターヴが相手ってのが厄介だな…。奴に精神論は通用しねえ、動かぬ証拠を突きつけない限りシロとは認めねぇだろう。」
「精神論か…。何かそれらしき情報はあったのか?」
ヴェスティーレはジョゼアーノから聞いた話をかいつまんで話した。アシュメアは首をわずかに傾げてしばし考え込み、
「乱暴な態度や言葉遣いでなく、行動で評価──────ね。難しいだろうな、それは。そもそも神殿騎士団がレオノアーヌに目をつけたのは、先の防衛戦で奴の団が不自然なまでの戦果を上げたからだ。そうでなくてもその男は治安維持の面で神殿騎士団員と度々対立している。難癖をつける材料には事欠かないだろう。」
「まぁ、オレも実際そいつと会ったわけじゃねえしな。間に立つのがラジュリーズでなかったらオレだって疑ってたところさ。…つまりは、それだけラジュリーズの立場がヤベェってことだ」
「審問会はいつ開かれるのだろうか………」
「さぁな。とにかく、無実を証明する確たる証拠を探そう。ラヴォール村の村民の何人かが救出されたラジュリーズと接触してたはずだ、オレはその線から洗い直してみる」
「だがお前、当分王都から出られないだろう?」
「その辺はちゃんと考えてあるさ。心配すんな」
「心配などしていない。」
そっけなく言い返すアシュメアの態度はいつも通りで、ヴェスティーレはそのことに安堵を覚える自分に内心苦笑した。
「ところで、お前の周囲で最近何か変わったことはないか」
「ん?」
突然のアシュメアの問いに、ヴェスティーレは眉をひそめるとアシュメアの顔をまっすぐに見返した。
「なんのことだ? オレは特に何も感じねえぞ」
「そうか、それならいいんだ」
あっさりと話を終わらせようとするアシュメアに、ヴェスティーレはふと嫌な胸騒ぎを覚えた。
「おい、何か心配事があるならそう言えよ? お前一人で処理できることならいいが、そうでないことまで抱え込んでねえか? お前見てると危なっかしくて気が気じゃねぇんだよな…」
「おや、これは礼を言うべきところかな」
からかうように言うアシュメアに、ヴェスティーレが大袈裟に溜め息をつく。
「茶化すんじゃねぇ、全く………。いいか、今オレらの団が置かれてる状況はどうみてもマトモじゃねえんだ。普段なら何でもねえことが致命傷になりかねん、それを忘れるなよ」
「肝に銘じるさ」
アシュメアはヴェスティーレの肩を拳で軽く突くとその場を後にした。
夕刻
西ロンフォール北西
生い茂る草木の中にこぢんまりと立つ、古びた石壁の監視塔の中。
ヒヤリと冷気を放つ暗い色の壁に背中を持たせかけ、両腕を組んでじっと黙していたアシュメアが、不意に口を開いた。
「プリズムパウダーに、サイレントオイルか? 音や姿は消せても気配が消えていないな。そんなことでは我が団の新兵にも劣るぞ、ギュスターヴ」
時刻は夜七時をわずかに回っている。ゲルスバ野営陣に程近いこの場所は、ほんの一マルム北に移動するだけでオークの斥候兵が数多く徘徊するようになるため、わずかの明かりも灯すことはできない。ジャグナーの戦いの大敗以来ラテーヌ高原への関所は封鎖され、ノルバレン方面への出入りは東ロンフォール経由の一択しかなくなってしまった。そのため、敵の陣地に近いこの監視塔は捨て置かれ、長く人の立ち入ることのない寂れた場所となり果てている。
漆黒の闇に包まれた狭い塔の中、はっきりと言い放ったアシュメアが身動きもせずに暗がりを睨みつけていると、ややあって、呆れたようにフッと溜め息をつく音が間近で響いた。プリズムパウダーの効果を手動で切ったギュスターヴが、目の前に姿を現す。
「やれやれ、私の未来の妻はどうやら千里眼をお持ちのようだ。これでは隠し事の類いなどできそうにありませんね。」
「ほう、一体何を隠そうというのだ? よければ聞かせてもらいたいな。」
「……それは円満な夫婦関係の為ですか? それとも貴女の任務のため?」
「そのどちらでもないと言ったら?」
サンドリアの深紅の礼服に身を包み、腕組みを解かぬまま視線を投げるアシュメアに、ギュスターヴは肩をすくめると穏やかな笑みを浮かべた。
「どちらでなくとも私はあなたに隠し事などしませんよ、愛しい方」
アシュメアは目を細めた。
「どうだろうな、それは──────お前は今、なぜここにいる?」
「貴女が、ここにいるから」
「そのわたしがここにいるという情報は、どこから掴んだ?」
じろりと睨み上げるアシュメアの鋭い瞳を、ギュスターヴは臆することなく見返した。
「私があなたの身を案じていないとでも? 遠征の任についているあなたをお守りすることはできないが、せめて王都に帰還している間くらいは私に御身を守らせていただきたい」
「余計なお世話だな。お前になど守ってもらわなくとも、わたしは自分の身ぐらい自分で守れる。──────わたしは今日、下城後に幕舎を出てからここに至るまで、常にインビジを切らさなかった。もちろんここに来ることは誰にも言っていない。………お前は、一 体 ど う や っ て 、わたしがここに来ることを知った?」
ギュスターヴが優雅な仕草で肩をすくめる。
「ですから、あなたが幕舎に入られる前から、密かにお供しておりました。」
アシュメアは小さく舌打ちすると、腕組みを解いて苛々と前髪をかきあげた。
「全く埒があかん。これだからお前と話すのは嫌いなんだ。」
「随分なおっしゃりようですね。万が一あなたがオーク共に襲われるようなことでもあれば、この身を呈してでも盾になろうと決めておりましたのに。」
「ハッ、──────怖いのは果たしてオークの方なのかな………。」
「あなたのような手練が、他に怖がるものでもあると?」
ギュスターヴがすっとアシュメアに身を寄せながら呟く。アシュメアは外の様子を探る振りをしながら、さりげなくギュスターヴとの距離を置いた。
「聞いたぞ、ラジュリーズのこと。一体どういうつもりなんだ。あんな戯れ言を我々王立騎士団が信じるとでも思うのか?」
アシュメアの言葉にギュスターヴはやれやれと天を仰ぎ、眉間を指先で押さえた。
「あぁ、同じ言葉をさきほどクスロー卿からもお聞きしましたよ。全くあなたがた王立騎士団は、常に外敵に身を晒す危険な任務についていながら、なぜそうも敵の手管を見くびるのです? ラジュリーズ卿が真に信頼のおける者だからこそ、彼の取った行動が全てを表しているのではありませんか。──────彼は、既に敵の手に堕ちたのだと」
「何を言う……」
ギュスターヴは両手を広げると、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、丁寧に言葉を繰り返した。
「ミュゼルワール卿とて同じことです。彼らは、既に敵の手に堕ちた──────オーク共の拘束を逃れた我が軍の兵士がラヴォール村で見聞きしたことはあなたもご存知でしょう? その事実を知ってなお、彼らを庇おうとするのはなぜなのです? 同じ団の仲間といえど、重罪を犯した者は相応の罰を受けるべきです。」
「あいつらが本当に罪を犯したというのなら、そうかもしれないな。」
「それは私がこの目で見聞きし、アルタナ様の御名に誓って国王陛下にご報告差し上げた由々しき事態を、真っ向から否定する発言と受け取れますが?」
「そもそも事の発端となったミュゼルワールの件は、死の淵にあった兵士がいまわの際に錯乱状態で口にしたことだ。証言として成り立つとはとても思えない。ましてや、その兵士の最期を看取ったのがお前ではな。」
「あぁ、あなたの口からそのような言葉を聞こうとは」
ギュスターヴは長い指でこめかみを押さえ、悲痛な表情を浮かべてみせた。
「私があなたに好かれていないことなどとっくに承知しています。ですが、これはあんまりだ。私はあなたの婚約者である前にアルタナ様の敬虔な信徒なのですよ? その私がなぜ、女神の御心に逆らうような行動を取るとお思いか?」
「その答えは、意外とお前自身がさきほど口にしていたのではないか? 『彼の取った行動が全てを表している。彼は既に敵の手に堕ちたのだ』、と」
ギュスターヴはアシュメアの顔を恨めしそうに見上げた。
「それは本気で言っているのですか? アシュメア………」
「さあな、お前はどう思う?」
平然と答えるアシュメアに、ギュスターヴはゆっくりと首を振り、溜め息をついた。
アシュメアはギュスターヴの悲嘆など意にも介さず、言葉を続けた。
「まぁ、全ては憶測にすぎん。お前が自分で見聞きしたことを証明できないのと同じように、わたしもお前の言葉が嘘であることを証明できないからな。……だが、これだけは覚えておけ。今後もわたしのことを嗅ぎ回るようなら容赦なく叩き斬る。目障りだ」
「──────お断りします」
ギュスターヴはアシュメアの脅しをさらりと聞き流すと、壁際に寄せていた身体をふわりと起こした。
不意にアシュメアとの距離を詰めたギュスターヴが、長い腕をのばし、アシュメアの顔に触れようとした。張り倒してやろうと振り上げたアシュメアの拳が、手首ごと掴み上げられる。上半身をひねって拘束を逃れようとしたアシュメアは、次の瞬間、自分の身体がほとんど自由の利かない体勢のまま壁に押しつけられたことに気付き、愕然と目を見開いた。
「あなたは私の妻になる人だ………。だがあなたは私のことを見ようとしない。こんなふうにね」
視線を反らすアシュメアの目の前に、ギュスターヴの怜悧な顔がある。口元にうっすらと笑みを貼りつけ、ゾッとするような冷たい光を双眸にたたえた男。頭一つ分は背の低いアシュメアを真上から見下ろす男は、ゆったりとした法衣の下で鍛えられた筋肉を動かし、アシュメアの四肢をやすやすと押さえ込む。
「私は時々考えるのです。私たちが真に夫婦として向き合える日は本当に来るのだろうか? 婚姻の儀を交わす夜ですら、あなたは私から目を背け、その場にいない者を想うのではないか? と」
この手さえ自由になれば。──────腰の剣を掴むことさえできれば。脳裏をよぎるその思いに、アシュメアが悔しげに唇を噛む。前線に立つなど考えたこともなく、これからも決して立つことはないであろう男。その男に力でねじ伏せられるなど、あってはならぬことだ。………だが、手が動かない。身体が動かせない。これが持って生まれた体格の、ひいては男女の差であるというのなら、今まで血のにじむような思いで訓練を積み重ねてきた意味はどこにあるというのだろうか。
アシュメアの細い手足をもがくこともできぬほどぎっちりと固定すると、ギュスターヴは低く息をつき、不意にその顔を近づけてきた。アシュメアが息を呑み、少しでも距離を置こうと顔を仰け反らせる。ギュスターヴは酷薄な笑みを浮かべると、逃げていく唇は追わず、無防備に晒された白い喉元に顔を埋めた。
「……ッ……!!」
濡れた舌が首筋を伝い、時折強く吸い跡を残しながら震える肌を這い上がっていく。舌先が耳の付け根に辿り着くと、アシュメアが全身を強ばらせた。
「…よ……せ………」
「なぜ?」
至極冷静な声でギュスターヴが問い返す。息を荒らげることも、顔を上気させることもなく、氷のような表情を崩さぬまま長い舌を使い、耳のひだをかきわけていく。
「我々はいずれ同じ姓を分かつことになるのですよ……? 戦場に身を置き明日をも知れぬ身であるあなたを、今ひと時だけこの手に留め置きたいと考えて何が悪いのです?」
「─────うそ、だ……お前は本当は、わたしのことなど………」
「わたしのことなど考えていない? それはこちらの台詞ですよ?」
クッと深く耳孔に舌を差し込む。アシュメアが眉根を寄せて激しく首を振った。ギュスターヴはいったん顔を離すと、歯を食いしばり荒い息を押し殺しているアシュメアの震える唇を上目遣いに見上げながら、徐々に姿勢を低くしていった。
「助けを呼びたい………、きっとあなたはそう思っているんでしょうね。…そう、幼馴染みのあの男を呼びたいと」
きっちりと着込んだ礼服の襟元を留めるボタンを、舌先で器用に外していく。次第にあらわになっていく真っ白い胸元を唇で赤く染めあげながら、ギュスターヴは低い笑い声を洩らした。
「なんだったら、呼んでいただいても構いませんが………あなたが見られながらするのがお好きなら」
「言うな──────あの男は関係ない」
「ほう?」
ギュスターヴは顔を上げた。
アシュメアは視線を反らし、きつく宙を睨み上げながら同じ言葉を繰り返した。
「あいつは関係ない。助けを呼びたいとも思わない」
「──────これはこれは」
ギュスターヴはすいと目を細めると、上体を起こしアシュメアの顔を覗き込んだ。
「それは観念したと判断してよいのですか?」
吐息がかかるほどの間近から発せられた問いに、アシュメアは一度瞼を閉じると、ギュスターヴの顔を真っ向から見据えた。
「どんなにあがこうとお前に嫁ぐ運命は変えられない。この身体をどうしようとお前の勝手だ、好きにするがいい──────だが、それは婚姻してからの話だ。その手を離せ、ギュスターヴ。でなければ今ここで舌を噛み切る」
きっぱりと言い放つアシュメアに、ギュスターヴは大袈裟に眉を上げてみせた。
「困ったものですね。陳腐な脅し文句だが、貴女の場合はただの脅しでないから厄介だ」
「未来の妻になる女があっさり男に身を任せる軟弱者でなくてよかっただろう?」
「………やれやれ」
ギュスターヴは肩をすくめると、アシュメアの手首を離し、ゆっくりと身体を引いた。
「今回はあなたの勝ちですね。大人しく引き下がるとしましょうか──────それではまた。愛しい人」
皺ひとつ寄っていない法衣をひるがえし、ギュスターヴがその場を去っていく。アシュメアは拳を握りしめたままじっと立ち尽くしていたが、背の高い後ろ姿が視界の端から見えなくなると、不意に力が抜けたように足元の床に座り込んだ。
北サンドリア、夜半過ぎ。茜隼騎士隊の幕舎の中。
ヴェスティーレは鎧を脱いだ軽装のまま広めの机の前に陣取り、クァールサンドを口いっぱいに頬張りながらノルバレン方面の地図に視線を落としていた。
隊員達は引き続きラヴォール村に駐屯しているため、幕舎にいるのはヴェスティーレ一人きりだった。小さな燭台の炎が、机上に広げられた地図にちらちらと光を投げかけている。立ったまま片手を机につき、思案気に地図を見下ろしながら硬い肉を噛み切ったヴェスティーレは、かたわらに置いていたティーカップが空になっていることに気付き、クァールサンドを口にくわえたまま幕舎の奥に向かった。
熱いサンドリアティーを満たしたポットを片手に、机の前に戻ってくる。くわえたままだったクァールサンドを一息に口に放り込み、咀嚼していると、不意に静かな声が背後で響いた。
「相変わらず行儀が悪いな、ヴェスティーレ。歩きながら物を食うなと教わらなかったか?」
「………!?」
突然の声に、驚いたヴェスティーレがクァールサンドを喉に詰まらせる。慌てて口に流し込んだ紅茶は喉を焼くほど熱く、ヴェスティーレは目を白黒させて派手にむせ返った。
「な、……っあ? …アシュメア、………か?」
「まるで子供だな─────。全く情けない。部下どもには見せられん姿だ」
「お前、なんで急に………、」
「急に来てはまずいのか?」
抑揚のない声で静かに告げるアシュメアに、ヴェスティーレは紅茶で濡れた口元をぐいと拳でぬぐうと、体裁を取り繕うように両手を大きく広げてみせた。
「別にまずかぁねえぜ? どっちかってーとお前の方が口うるさいだろ、いつも。勝手に来るなとか、いきなり通信をよこすなとか」
「……そうだな」
アシュメアが低く呟く。
ヴェスティーレはかすかに違和感を覚えて口を閉じた。いつもなら反論されるか一笑に付されるところだ。だが、目の前のアシュメアはそのどちらでもなく、ただ顔をうつむけて静かに佇んでいる。
燭台の炎から顔を背けるようにしているため、アシュメアの表情はよく見えなかった。かわりに、赤い礼服のきらびやかな刺繍が揺れる光を鈍くはね返している。礼服の襟のボタンが中途半端に外れていることにヴェスティーレは気付いた。
「…何かあったのか」
押し殺した声でヴェスティーレが訊いた。アシュメアは答えない。
「おい? お前、まさか」
「──────…」
無言のままかたくなに視線を反らせるアシュメアの白い首筋に、鮮やかな赤い痣がいくつも浮き上がっている。ヴェスティーレがアシュメアの顎に手をかけ強引にこちらを向かせると、不意に口元を押さえたアシュメアが、伏せた睫毛を小さく震わせた。
「………ッ、誰にやられた? ギュスターヴか!?」
ヴェスティーレはアシュメアの細い肩を両手で掴むと、鋭い声で詰問した。抵抗もなくがくがくと身体を揺さぶられながら、アシュメアがヴェスティーレの顔を見上げる。
見開かれた瞳から大粒の涙がこぼれ落ちるのを見て、ヴェスティーレの視界がカッと赤く染まった。
「っのヤロ……ッ!!」
踵を返し幕舎を飛び出そうとするヴェスティーレを、アシュメアが切羽詰まった声で引き留める。
「待て、ヴェスティーレ!! どこに行くつもりだ!!」
「ンなん決まってんだろッ………!! あのクソヤローに一発見舞ってやらなきゃ気が済まねえ!!」
「やめろ、ヴェスティーレ!!」
「なんでだよ!? お前だってそのつもりでオレんとこ来たんだろうが!!」
大声でそう言い放ち、出口に向かおうとしたヴェスティーレは、不意にアシュメアが身体をぶつけるようにして自分の背中に身を預けてきたのを感じ、びくりと全身を震わせて立ち止まった。
「行…くな……行かない…で、く…れ………。…たのむ………」
「お前……」
「……一人、に、……し…な………で…」
震える語尾は嗚咽でかき消された。ヴェスティーレは唇を噛みしめると、足元の床に視線を落とした。
「…分かったよ。どこにも行かねえ」
「す… ま…… な ………」
「礼なんざいいから、好きなだけ泣いちまえ。どうせ外じゃロクに泣けもしねえんだろ」
「………」
ヴェスティーレの背にぴったりと身を寄せたアシュメアが、おずおずと腕をのばしてヴェスティーレの長身にすがりつく。ヴェスティーレは両腕をだらりと下に下ろしたまま、黙って前方を見据えていた。広い背に押しつけられた胸がゆるやかな鼓動を伝え、小さな唇がしゃくりあげながら泣き声を洩らすたび、ヴェスティーレの背中が吐息でしっとりとあたためられる。ヴェスティーレは強く眉根を寄せると、瞳を閉じて震える息をゆっくりと吐き出した。
「………ヴェスティー…レ」
アシュメアが嗚咽の合間を縫って消え入りそうな声を出す。
「……なんだ」
ヴェスティーレは瞳を閉じたままぶっきらぼうに聞き返した。
「…わた し、………を……」
「──────ダメだ」
即座に返ってくる声に、アシュメアが身体を強ばらせる。ぎゅっと強く身体を押しつけ、アシュメアは必死に言葉を探した。
「な…ぜ………? お、前……だって………」
「言うな。ダメだ、アシュメア」
「………っ…」
ヴェスティーレは瞼を開くと、自分の身体にきつく絡みつく細い腕を見下ろした。
白く華奢なアシュメアの手。自分のものとは比べ物にならぬほど小さなその手に無骨な指を重ねると、ヴェスティーレはアシュメアの片手を手の平に包み込み、やわらかな指先にそっと唇を落とした。
「オレの役目はお前を護ることだ、傷つけることじゃねえ………お前はオレが一生かけて守ってやる。だがお前はオレのモンじゃねえ、そうだろ?」
「……!!」
アシュメアはヴェスティーレの手を振り払うと、身体を離し、震える瞳でヴェスティーレの顔を睨みつけた。だが、一瞬後には子供のようにぐしゃぐしゃに顔を崩し、後ろも見ずに幕舎を飛び出していく。
ヴェスティーレは深く長い溜め息をついた。ふらりと揺れた身体が机に当たり、ティーセットがカチャカチャと音を立てる。ヴェスティーレはサンドリアティーを満たしたカップを虚ろな瞳で持ち上げると、一瞬身体を硬直させてから、手にしたカップの中身を勢いよく壁にぶちまけた。
「──────…」
広げた指で顔を覆う。ヴェスティーレの手を離れたティーカップが派手な音を立てて床の上で砕け散った。

