龍の系譜 PHASE2

CREW EDGE

龍の系譜





 ズクン──────…
 レオノアーヌの中で何かが脈を打つ。


 その脈動が手にした剣から伝わってくるのだと、理解するのに数秒を要した。
 まるでゴールドアルゴルに身体の芯を貫かれてでもいるかのように、強い脈動が繰り返し体内を突き抜けていく。そのたびに背筋を駆け上る鳥肌の立つような感覚に、レオノアーヌが強く眉根を寄せる。


 レオノアーヌは鉄の枷の食い込む左手首を持ち上げると、不意に手の甲に牙を突き立て、表面の皮膚を強く噛み裂いた。鋭い痛みに一瞬顔をしかめる………低く息をつくと、レオノアーヌはギザギザに裂けた傷口を押し開くように、ざらりと舌を這わせた。
 痛みで意識が明瞭になる。ゴールドアルゴルの発する波動に引きずり込まれそうになる理性を、強引につなぎ止めた。
【テメェら、……ミュゼルワールをどうした……】
 レオノアーヌが発した言葉が意外だったらしく、グワッジボッジはレオノアーヌの姿を探るように見下ろした。
【ほう……? 貴様が他人の心配をするのか? ナイトの技を使うようになったとは聞いていたが、まさか本気で騎士道精神に目覚めた訳でもあるまい?】
【あぁ…? 】
 レオノアーヌは荒い息を吐きながらニヤリと笑った。
【そいつぁこっちのセリフだけどな、オークの大将? そっちこそ、いっぱしのナイトを気取ってるらしいじゃねェか……】
 グワッジボッジは不愉快そうに鎧をガシャリと鳴らして身震いした。手にした剣をレオノアーヌに向かってつきつけ、
【貴様にナイトを名乗る資格などない、レオノアーヌ。裏切りと自己愛こそが本質である貴様に、真の騎士道を理解できるはずがなかろう。】
【騎士道だと? テメェごときが騎士道たぁ笑わせるぜ。味方の身体に爆弾くくりつけて自爆させんのがオークの騎士のやり方なのか?】
 グワッジボッジはつきつけた刃をわずかに震わせた。
【あれはジャックノックの独断に過ぎぬ……。我があのような作戦など立てるものか。】
【黙認してる時点でおんなじだろ。見苦しいぜ、グワッジボッジ。所詮てめェはホンモノの騎士になんぞなれねぇのさ──────俺と同じでな。】
【貴様などと一緒にするな…!!】
 グワッジボッジは巨大な剣をブンと振り払った。
【我は剣闘士として過ごした我が半生を誇りに思っている……。己の保身の為に流されたにすぎぬ貴様などと同じであろうはずがないわ!!】


【剣奴なんざただのドレイだろ…】
 吐き捨てるように言い放つと、レオノアーヌは食いしばった歯の間から鋭く息を吸い込み、拡散しようとする意識に抗った。──────ゴールドアルゴルの脈動が再びその身体を支配しつつある。


【誇りを知らぬ哀れな生き物よ………貴様の連れをどうしたと先程問うたな。なぜそのようなことを気にかける? その者は貴様にとって利用価値でもあるのか?】
【利用価値……?】
 体内を抉る鋭い疼きに顔をしかめながらも、低い笑いがこみ上げるのをレオノアーヌは自覚した。………自嘲にも似た笑い。
【んなモン知るかよ……。懐に入ってきちまったモンはしゃあねぇだろ。あいつは俺が連れて帰る。手出しはさせねぇ。】
 ──────気が狂いそうなほど血に飢えていながら、拘束された自分を前にしても最後まで襲ってこようとはしなかったミュゼルワール。そのミュゼルワールが砕けそうな理性を保つためにすがったのが、ジャグナー森林で自分が口にした言葉であることをレオノアーヌは正確に理解していた。
 自分はどうやら、ミュゼルワールを救いたいと思っているらしい──────顔を突き合わせれば悪態の応酬になるため、自覚したことはなかったが。
(「お前さぁ、言ってることとやってることが違うのに気付けよ………」)
 ラジュリーズの言葉を不意に思い出し、レオノアーヌは自嘲の笑みを深くした。
(やっぱ、あんたにゃかなわねェな、ダンナ──────生きててくれよ。必ず、ミュゼルワールを連れて帰っからな……)


 不意にきつい目眩がし、レオノアーヌの意識を根底から揺さぶった。
 ゴールドアルゴルから伝わる熱い疼きが全身を苛み、視界が大きく歪んでいく。レオノアーヌは拳で乱暴に額の汗を拭うと、低い呻き声を洩らした。フラリと揺れる身体を、グワッジボッジが冷ややかな目で見下ろす。
 グワッジボッジはレオノアーヌの身体に現れる兆候を注意深く見定めているようだった。自ら与えた苦痛で理性をつなぎとめていたレオノアーヌが、再び灼熱の波動に侵されていく様を目を細めて注視する。
【この場所、この地形──────何か思い出しはせぬか、レオノアーヌ?】
【あ……?】
 グワッジボッジの言葉の意味を取りかね、レオノアーヌは半眼に閉じていた瞳をちらりと周囲に向けた。隙間なく自分を取り囲み、ガチガチと牙を噛み合わせては獣の呼気を放つオーク達──────地の底にあるかのように深くうがたれた穴の底で敵と対峙する自分を、湾曲した壁面の高い位置から見物するいくつもの瞳。
【オークならざるお前が、その霊剣にどう反応するか見ものではあったが──────。危険だと分かっていても、その手にせずにはおれなかったのであろう? やはり本能には逆らえぬようだな。】
【…何が…言いてェ………?】
 レオノアーヌは食いしばった歯の間から言葉を押し出した。
【それは分からぬフリか?】
 あざけるようにグワッジボッジは言い、クックッと低い笑いを洩らした。
【それとも、本当に分からぬとでもいうのか………? では、その身体に現れた現象をどう説明する?】
【現…象……?】
 レオノアーヌは閉じかけていた瞼を強引にこじ開けると、霞を振り払うように二、三度強く頭を振り、自分の身体を見下ろした。
「……な…ッ……!?」
 斜十字の傷が刻まれた剥き出しの上半身。その褐色の肌を埋めつくすように、赤黒い斑紋が全身に浮き上がっている。
 複雑な紋章のようにも見える斑紋は生き物のごとく息づいていて、ゴールドアルゴルが強い脈動を放つたび、ざわりとうごめきながらレオノアーヌの肉体を浸食し、その範囲を広げていく。
 全身を炎に舐められているかのような疼痛──────
「ぁ……ぐッ…………」
 呻き声を洩らしそれに耐えるレオノアーヌを、グワッジボッジは眉一つ動かさず冷静に観察する。
【我らオークの一族の中ですら、その霊剣に触れることができる者はそうはいない──────まさか人間である貴様がその剣に選ばれようとはな。殺そうと思えばいつでも殺せた貴様を今まで生かしておいたのも、運命だったというわけか………。】
【運命…だと……?】
 ひどい耳鳴りがする。発したはずの自分の声すら聞き取れないほどの。
【……ークの村で生まれ育ち、ジャックノックに物のように使役されてい………ックノックにトドメを刺したのは貴様だそうだな。どうであった、かつての主をその手に………た感想は………?】
 グワッジボッジの声が急速に遠くなっていく。視界にザッとノイズが走り、自分を取り囲むオーク兵の刃も、ひしめきあう鈍色の鎧も、目の前にある何もかもが不意にかき消された。
 感じるのは視線だけ──────血飛沫の届かないはるかな高みから自分を見下ろすいくつもの瞳。ここは円形闘技場に似ているのだ………レオノアーヌは気付いた。
 全身を覆い尽くす斑紋が、表皮から筋肉組織へと浸食を深めていく。内側から引き裂かれる感覚に、レオノアーヌは身体をわななかせ鋭い叫び声を放った。ひときわ大きな律動がレオノアーヌに襲いかかり、身体の芯をえぐるように突き抜けていく。
【その霊剣は我らオークが儀式に用いる神聖なもの──────持つ者の獣性を限界まで引き出し、凄まじい破壊衝動に駆り立てる。…過去それに触れた人間がいなかったわけではない。だが、その者らはことごとく霊剣に拒まれ、発狂しのたうちまわりながら死んでいった………。】
 グワッジボッジはそこで一度言葉を切った。


【人間であるにもかかわらず、霊剣に触れてなお生きながらえる者よ……。その剣の持つ忌まわしき力に反応し浮き上がった斑紋は、お前の中に流れるオークの血だ、レオノアーヌ──────。霊剣が貴様を生かす理由など他には存在しない………。】








「………オークの…血……だと…………?」
 低く呟く自分の声が、他人のもののように聞こえる。


 ──────ドクン…。
 手にしたゴールドアルゴルが、生き物のように脈を打つ。
 レオノアーヌの全身がぶるっと大きく震えた。


 ──────ひりつくような灼熱に呼応するように、熱狂し猛り狂うもの。


「……はッ……」
 血風のたなびく戦場で、幾度となくレオノアーヌを支配してきた衝動と興奮。殺戮がもたらすたまらない喜悦。
「………ははッ」
 それらが指し示すものに、気付かなかったといえば嘘になるのだろうか──────?


「…ヒャハハハハハハッ!!!!」
 レオノアーヌは口角を吊り上げ、惚けたような笑い声を放った。


「──────そうかよッ!!! 化けモンは他の誰でもねぇ、この俺だったッてわけだな!!!!」


 自らが放った声も、レオノアーヌの耳には届いていなかった。
 レオノアーヌの身体が何の前触れもなく動いた。ゴールドアルゴルが周囲の空間を水平に薙ぎ払い、取り囲んでいたオーク達が放射線状に吹き飛ばされる。黄金の刃を濡らす血糊ををべたりと舐め上げると、レオノアーヌは獰猛な呼気を吐き出した………両眼が吊り上がり、全身の皮膚がビリビリと引きつる。出口を求め全身を駆け巡るすさまじい欲望──────殺戮の先に待ち受ける、途方もない悦楽。
 今まで幾度となく戦場で味わってきたそれは、ゴールドアルゴルのまとう人外の妖気とすりあわされた今、信じがたいほどに圧倒的な力となってレオノアーヌの理性を引きちぎり、粉々に砕き去った。
 武器を構え直したオーク達が、雪崩を打ってレオノアーヌへと襲いかかる。一瞬早く宙を舞ったレオノアーヌの全身を覆うように、赤黒い斑紋がくっきりと浮かび上がった。








【公爵は生け捕りをお望みだ……。四肢を斬り落としても構わぬ、生きたまま捕えよ。】
 腹心にそう告げると、眼下に展開する凄まじい戦闘を見届ける気がないのか、グワッジボッジはくるりと背を向け横穴の通路へと姿を消した。
【生け捕りとは厄介な──────あの霊剣は触れずとも間近にあるだけで我らオークの血を狂わせる悪しき代物。兵どもの歯止めがきく保証はございませんぞ。】
 背後に付き従う大隊長が苦々しげに進言する。
【構わぬ。生け捕りにしようとしたという事実さえあればよい………魔力を宿した人間など掃いて捨てるほどいるのだ。第二の器とやらが奴でなくてはならぬ理由などどこにもないだろう。】
【公爵も戯れが過ぎますな。よりによってあの男を選ぶなど──────】
 グワッジボッジが不意に片手を上げ、部下の言葉を制した。
 四本の柱が燭台の炎を灯す四角い空間。暗く淀んだような空気が音もなく振動し、闇が一ヶ所へと集まっていく。
 大隊長が慌ててその場に膝を折る。微動だにしないグワッジボッジの前で、すうと集まった闇は次第に実体を持ち、一体のデーモンの姿になった。
【はて、話が違うように見受けられるが…? オークの将領よ】


 グワッジボッジは黒灰色の床にゆっくりとひざまずき、低く頭を垂れた。
【これは、公爵……。自らおいでいただかなくともよろしいものを】
 おそらく部下との話は筒抜けだったのだろう。だが、悪びれる風もなく慇懃な態度を取るグワッジボッジに、デーモンが皮肉めいた笑みを浮かべる。
【我は第二の器を捕えるに五体満足でなくとも構わぬとは言ったが、生死を問わぬとは言っておらぬぞ?】
 デーモンの言葉に、グワッジボッジは慇懃な態度を崩さず言葉を継いだ。
【あの者は絶対皇帝から賜りし宝剣に手を触れた不届きな輩。罪をあがなわせる必要がございます─────しかも我らオーク族とは、浅からぬ因縁の持ち主にて】
【その絶対皇帝は我ら闇の軍勢に服従を誓ったのだ。忘れた訳ではあるまいな。】
 背後の部下が頭を垂れたままギリッと奥歯を噛みしめたのが分かる。だがグワッジボッジは顔色一つ変えず、視線を床に据えたまま首を振った。
【忘れるなどとんでもない…。─────しかし、あの程度でたやすく壊れるような器であれば、例の儀式とやらに使うには初めから不向きといえましょう。】
【フッ、我の審眼を秤にかけると申すか……。まぁよい。】
 デーモンはグワッジボッジに背を向けると、その姿を再び闇に溶けさせた。グワッジボッジが顔を上げる。
【それにしても、もう一体の器が見当たりませぬが、果たして─────】
【それは汝の気にすることではない、オークの将領よ。】
 姿の消えた何もない空間から、デーモンの声が響く。
【仮にその姿を認めたとしても、手出しは無用………ノスフェラトゥ卿に任せておけばよい。】
【……御意】
 声の気配がかき消えたのを確かめると、グワッジボッジはゆっくりと立ち上がった。





*         *         *






 時間をさかのぼること、十数分──────。


「レオノアーヌ! よせ……!!」
 ミュゼルワールが思わず放った声は、周囲の壁のあちこちに反響し、不協和音を響かせながら消えていった。


 レオノアーヌの手が、しっかりとゴールドアルゴルの柄にかけられる。
 途端、弾かれたように身体を震わせるレオノアーヌを、ミュゼルワールは張り出した壁面の床に片膝をついたまま、身を乗り出して食い入るように見つめた。
 レオノアーヌが声にならない呻き声を放つ。ガクガクと震える身体が床から刃を引き抜き、そのままふらりと後退する。
 レオノアーヌの呼吸がみるみる乱れていくのが、離れていても分かった。上半身をガクリと落とし、肩を大きく上下させながらレオノアーヌが獣じみた呼気を吐く。
「…ア、─────…」
 苦しげに顔を歪めると、レオノアーヌは震える左手で額を覆い、髪をかき乱して苦悶に満ちた呻き声を放った。
(だから言わんこっちゃねえ、あの馬鹿──────!!)
 ミュゼルワールはギリッと唇を噛みしめると、素早く身を起こした。レオノアーヌの後を追い、穴の底へと跳躍しようとした時、


【……どこへ行く】
 不意に耳元で響く声に、身体がビクリと硬直した。


【第二の器の元へか──────。そなたが行って何になる? かの者は自ら進んで呪剣を手にしたのだぞ?】
 すでに聞き慣れたその声。
 ミュゼルワールは全身に殺気をみなぎらせて振り返った。背後に人影はなく、ただ声だけが遠く近くに揺れ動きながらミュゼルワールに語りかける。
【興味深いものだな、ミュゼルワールよ………第二の器もまた、業の血に縛られし定めの者。そなたがそうであるように──────】
【アイツが……?】
 決して使い慣れてはいないはずの言語を、ミュゼルワールはたやすく口にした。
【すでに半人半妖の身となったそなたなら、気付いていたのではないか? 第二の器が時折放つ、人ならざるものの気配を………。】
【…覚えがねえな。オレはあんなにテメェの感情に率直な単純馬鹿は見たことがねえ。生きることに率直な奴もだ。奴ほど人間臭い輩をオレは知らねえよ。】
 ミュゼルワールの放つ揺るぎない声に、ノスフェラトゥはふと考え込むように呟いた。
【かの者もそなたも、危うい均衡の上に辛うじて成り立つ不安定な魂──────。なのに、なぜであろうな…? 何故、ぬしらは其の様に人としての自我を保つことができるのだ? そなたらのような者達を我はかつて知らぬ……。】
【アイツもオレも、どうしようもなく人間だから、さ】
 ミュゼルワールはすうと目を細めながら低く声を放った。………先程までは感じられなかった気配が、闇の向こうに確かに存在する。
 沈黙に包まれた背後の通路を油断なく見据えると、ミュゼルワールは言った。


【奴の抱えた業なんざ知ったこっちゃねえ。アイツはオレに人であるために闘えと言った──────半人半妖の化け物はオレ一人で充分だ。アイツに手は出させねえ】


 クックッと、声を立ててノスフェラトゥが笑う。
【はて、─────少なくとも、我はかの者を我が一族に引き入れる気など毛頭無いが…。あの命を欲しているのはオークと名乗る醜悪な獣人達。我が欲するはそなた一人のみぞ、ミュゼルワール………】
【…虫酸が走るぜ。】
 吐き捨てるように言うと、ミュゼルワールはすっと足を踏み出した。ノスフェラトゥの気配の漂う方角へと、闇の落ちる通路をためらいなく進んで行く。
 ぴんと張りつめた無駄のない動きに、ノスフェラトゥの声があざ笑うように響いた。
【ほう、その歩み──────かの者の精気を多少は吸い取ったようだな? だが、まだ生き血を吸った訳ではあるまい。その気丈いつまでもつものかな…】




ミュゼルワール&レオノアーヌ
illustrated by Kyo@Studio D-Crew





 細い通路を抜けた先の広場に待ち受ける人影を見て、ミュゼルワールは目を細めた。
 見慣れた赤と黒の華美な鎧。錆び付いたような色の剣。左腕に装着した盾の表面についたいくつもの傷は、どれも見覚えがある。
 鎧の左の肩当ては無惨にも砕け散っていた──────そこにいたのはミュゼルワール自身だった。
(なぜ、奴自身の姿で現れない………? 奴はここにはいないのか?)
 ならば、目の前にいるのは、ドッペルゲンガー……か。
【牢を破るのを止めなかったのは何故だと思う?】
 ミュゼルワールの声でドッペルゲンガーが静かに言う。どくどくと左肩からあふれる鮮血をしたたらせながら、青ざめた怜悧な顔がニヤリと笑う。
【逃げ場などどこにもないのだ、ミュゼルワール──────たとえこの城から抜け出せたとしてもな。そなたの身体はもう人間のそれではない。共にいる第二の器ですら、そなたの糧食であるに過ぎぬ………この傷を負ったその時から、そなたは呪われし我が一族の末裔なのだ………!】
 ドッペルゲンガーが右腕を持ち上げる。ラムダスタナの薄い装甲に覆われた五本の指が、粉々に砕けた肩当ての隙間を探り、ぐちゃりと音を立てて自らの左肩の裂傷を深々とえぐった。まるで自分の肩をえぐられたような激痛が走り、ミュゼルワールが思わず左肩を押さえる。
 治っているはずの傷口からは、確かに血がにじんでいた。
 治っているはずの。
 ラジュリーズの台詞が、不意に脳裏に蘇る。
(「へぇ、腕が一生上がらなくなってもおかしくねぇくらいの傷に見えるがな。………」)
 ドッペルゲンガーは、まるで痛みなど感じないかのように五本の指を自分の肩に突き立て、傷口の中をかき回す。灼けつくような疼痛にミュゼルワールは短く声を放つと、暗い床にガクリと片膝を落とした。


 身体の左半分が業火に晒されているかのようだ…、生きながら焼かれる肩が、腕が、崩れた肉の間から腐った汁を垂れ流しながらぐずぐずと音を立てて崩壊していく。


 不意に明瞭に浮かび上がる記憶に、ミュゼルワールの目が見開かれる。
(あ──────…?)


 唐突にミュゼルワールの左腕がずるりと音を立てると、崩壊した肉の塊が糸を引きながら床の上に腐り落ちた。剥き出しになった白い上腕骨を呆然と眺めていると、地に落ちた腐肉がぶるぶると震えているのに気付く。


 ミュゼルワールは声を放った。
 ぼたぼたと後を追うように左腕の肉が次々に剥がれ落ちる──────自分が覚えているのはそこまでだ。そこまでのはずだ。
 ………だが。


【水か──────。水などいくら飲んだ所で、その乾き癒されはしないぞ。】
 はっきりと声がする。
 ミュゼルワールは間近に響くその言葉の意味を正確に理解することができた。今では聞き慣れてしまったその声が、何か戯れ言を口にし、のばされた腕が拘束されたミュゼルワールの髪をぐいと掴む。
 なぜ自分にその情景が見えるのかは分からない──────ミュゼルワールは、柱に縛り付けられ、膿みきった肩から血と腐汁を垂れ流す自分が、無理矢理口をこじ開けられ人間の腕の切断面をねじ込まれるのをはっきりと見た。
 喉仏が大きく上下し、自分が溢れる血潮を夢中で飲み下しているのが分かる。見ているうちに不意に吐き気がこみ上げ、ミュゼルワールは喉元を掴むと苦しげに息を吐いた。
 きつく目を閉じてもその情景は消えなかった。──────ぐちゅりと泡を立て、ミュゼルワールの唇の端から流れ落ちる幾筋もの血液。引きちぎられた人間の腕は、全ての指の関節がありえない角度にねじ曲がり、爪が根元から無惨に引き剥がされていた。その捕虜はやめてくれと叫んだのだろうか。自分の身体が何に使われるのかも知らぬまま、四肢をねじ切られ死んでいったのだろうか。
 喜悦の表情をさえ浮かべ、溢れる血をむさぼり喰らう自分。
 醜く腫れ上がっていた左肩の創傷部位から、不意に鈍い光がこぼれ出した………表面を伝う血や腐汁はそのままに、裂傷がみるみるふさがっていく。
 すぐ近くにいながら、手の届かない情景。ミュゼルワールは、永遠に失いかけていた左腕を取り戻したのはその時なのだと悟った。
 ──────その代償に、自分が何を失ったのかも。


 目の前の情景は、現れた時と同じように唐突に消えた。
 ミュゼルワールは揺れる視線を手の平の上に落とした。──────皮膚の一枚下を氷のように冷たい体液が流れていく。
 この身体を、命をここまでつなげてきたものは何なのか。知ってしまった以上、王都には戻れない。
 逃げ場などどこにもない。ノスフェラトゥの言葉の意味が、ようやく分かった。
 不思議と悲壮感はなかった。──────分かっていたのかもしれない。記憶はなくとも、自分はどこかで理解していたのだろう。
 ミュゼルワールは拳をゆっくりと握りしめた。
 もはや戻れないと分かった以上、やるべきことは一つだ。レオノアーヌと、生きているならラジュリーズを無事王都に帰す。
 その後のことは考えなかった──────自分にその後があるなどと、考えるほうがおかしいだろう。
 ミュゼルワールは不気味な笑みを浮かべて自分を見下ろすドッペルゲンガーをギラリと睨み上げた。
 ドッペルゲンガーが肩の傷をえぐるたびに、自分の肩もひどい疼きを覚える。
 奴の身体を傷つけると同じ痛みを共有することになるのだろうか? ──────そうは思えない。事実、ジャグナー森林で自らのドッペルゲンガーと対峙していたレオノアーヌに、そのような素振りは見えなかった。
 ならば。乗り越えるべきは、己の弱さなのだろう。
 ミュゼルワールは刃のような視線を敵に向け、ゆっくりと立ち上がった。
 シャツの左肩に新たな血がじんわりとにじんでいる。右手で押さえつけるその肩も、左腕も、本来なら失っていたはずのものだ。
【人間の身体じゃねえ、か──────。上等だ。戻れねえならそれでも構わねぇ。貴様らを地獄に突き落とすために必要だってんなら、こんな身体いくらでもくれてやるさ。】








 ドッペルゲンガーがスラリとブラッドソードを抜き放つ。
 銀の髪をなびかせ、壮麗な鎧をまとったミュゼルワールそのものの姿で、敵が武器をピタリと構える。汚れきった自分の姿をちらりと見下ろし、他人事のようにミュゼルワールは笑った。かろうじてまとわりつく鉤裂きになった白いシャツ、血と汗にまみれ頬の削げ落ちた顔。これではどちらが本物か分からない。 
 ブラッドソードを構え静止したまま凄まじい気を放つドッペルゲンガーとは対照的に、ミュゼルワールは肩の力を抜いた自然体のまま、ふわりと持ち上げた両手を構えファイティングポーズを取った。敵を見据えたまま半身をやや斜めに引き、小刻みなステップを刻み出す。
 踵がわずかに浮く程度のフットワークでタイミングをはかっていたミュゼルワールの身体が、敵の動きに反応した。轟音と共に空を裂くブラッドソードをサイドステップでかわし、敵の死角へと立ち位置を入れ替える。
 瞬時に放ったハイキックは鈍色の盾に遮られた。敵が向き直った時には既に距離を空けている。
 ミュゼルワールの意識は氷のように研ぎ澄まされていた。敵の動くタイミング。攻撃のリーチの長さ。全く同じ体格である上に、敵の剣技の癖は呆れるほどに自分のそれと寸分たがわない。
 ゆえに動きを見切ることは不可能ではなかった──────だが、圧倒的に不利なのは装備面だ。鎧一式に武器と盾まで装備した敵に対し、自分は丸腰のうえ、下半身の装甲しか身につけていない。
 続けざまに繰り出される刃を、ミュゼルワールは鮮やかなフットワークでかわした。幸か不幸か、装備がない分身体が軽くなっているのは確かだ。しかし、カウンターを警戒する敵が剣を振り抜くことをやめたため、すれ違いざまの一撃を入れるのが難しくなった。
 敵が金色の瞳にすさまじい殺気をみなぎらせる。同じ金色の瞳でミュゼルワールが真っ向から視線を弾き返す。
 ドッペルゲンガーは鋭い気合いを放つと、それまでの攻撃を上回るスピードで突き技を撃ち込んできた。ギリギリのところで刃をかわしたミュゼルワールが、あえて距離を取らず左サイドに回り込む。
 敵の腕と交差するようにミュゼルワールは左フックを放った。──────だが、ヒットする寸前、不意に本能が何かを感じ取り、ミュゼルワールの全身がザワッと総毛立った。反撃を誘われたのだと気付く間もなく、ドッペルゲンガーのシールドバッシュが炸裂する。
 右腕を上げ、顔面をガードしていたためかろうじて頭部への直撃は避けることができた。スタンによる硬直の解けた身体をひるがえす──────同時にヒュルッと不穏な音が空を裂き、咄嗟にミュゼルワールは上体を反転させた。たった今までミュゼルワールの身体があった場所にうなりをあげてブラッドソードが突き込まれる。
 ドッペルゲンガーは深々と床に突き立った剣を引き抜くと、くるりと振り返った。
 ミュゼルワールはすでに体勢を立て直していたが、その腕と額からは鮮血が流れ出している。
 ドッペルゲンガーが白い顔に残忍な笑みを浮かべた。 


 剣を中段に構えたまま、ドッペルゲンガーがジリ、とすり足でミュゼルワールを追いつめていく。
 ミュゼルワールは敵の位置に対し円を描くように体をさばき、壁際に追い込まれることを避けた。ちらりと肩越しに周囲を確認する──────武器になりそうなものは何も見当たらない。


 この状況が長引くのは危険だ。何か………策はないか。
 敵が自分と同じ剣技を使うなら、いきなり急所を狙ってはこない。より広い的を狙ってまずは一撃、トドメをさすのはそれからだ。一か八か、被弾覚悟でこちらから攻撃を仕掛け、敵の武器を奪うか。
 ──────それとも。


 敵にあって自分にはないもの。使い慣れた武器、盾、小手と胴鎧。
 敵にも自分にもあるもの。下半身の装備、身に付いた剣技。


 自分にあって敵にはないもの──────


 ミュゼルワールはスタンを唱えた。同時にホーリーサークルを発動させる。
 ドッペルゲンガーが対象の全ての技をコピーするのだとしても、少なくともこの敵は、ボスディン氷河でノスフェラトゥと初めて対峙した時の自分を元に造られているらしい。
 ならば、暗黒魔法は使えないはずだ──────加えて、敵がアンデッドであるという知識。
 敵の表情に明らかに動揺が走る。アンデッドをひるませるホーリーサークルの効果か、その動きが一瞬だけ鈍った。ミュゼルワールがためらいなく突進する。
 タイミングを狂わされた敵の剣が、右下から斜めに空を裂いた。スライドするように上体を左横へ倒しつつ、ミュゼルワールが軸足を踏み込む。耳元を刃がかすめ、断ち切られた髪の端が宙に舞い上がった。空を切った敵の剣が振り切られるのと同時に、ミュゼルワールは踏み込んだ左足を軸に上体と腰に回転を加え、右足を弧を描くような軌道で振り上げた。
 敵の腹部にヒットする瞬間、ためていた力を一気に爆発させる。しなやかな鞭が敵の肉を裂く瞬間鋼の硬さを持つように、ミュゼルワールの放った中段回し蹴りは鎧の上からも敵の脇腹を確実にえぐった。
 カウンターを取られた敵が前のめりになり、たたらを踏む。ミュゼルワールは勢いを殺すことなく流れるような動きで身体を左へ回転させると、上半身をひねりざま左肘を後方へ振り抜き、回転力を乗せた左足を放った。踵が真一文字に空を裂き、敵の顎先を一気に打ち砕く。
 全ては一瞬の出来事だった。中段回し蹴りから上段後ろ回し蹴りへのコンボが見事に決まり、宙に浮いた敵の身体は、次の瞬間どうっと音を立てて地に崩れ落ちた。


 荒い息をつくミュゼルワールの目の前で、ドッペルゲンガーの身体は風に流され霧散していった。武器も防具も、同じように霞と消えていく。
 あわよくば装備を奪って──────などと考えなかったわけでもないが、ある意味予想通りの消滅の仕方に、ミュゼルワールは軽く溜め息をついた。
(本体はやはりここにはいない、か─────)
 髪をかきあげ、深い息をついたミュゼルワールは、指先に触れる額の傷が早くも塞がりかかっているのに気付いた。
 シールドバッシュの直撃をまともに受けた右腕も、いまだ表面を伝う血糊が嘘のように傷口が塞がり、痛みすら感じない。
(──────…)
 一瞬苦々しげな表情を浮かべたミュゼルワールは、ふと、自分のものではない血の匂いを嗅ぎ取り、顔を上げた。
 太陽が上空にある時間帯でなければ、自分がそれに耐えられたかどうか分からない──────それほどまでにくっきりと濃い血の匂いが、背後の狭い通路から流れ込む風に乗り、渦を巻く。
 ミュゼルワールは顔を引き締めると細い通路を元来た方向へと戻っていった。


 眼下に広がる凄まじい光景を目の当たりにし、ミュゼルワールは絶句した。
(…な、──────)
 穴の底に累々と積み重なるオークの死体。そのどれもが体を鎧ごとかき切られ、湯気の立つ内臓をびちゃりと辺りに飛び散らせている。空気が赤く煙っているのは絶えず舞い上がる血飛沫のせいか──────首をなくしたオークの体が派手な音を立てて吹き飛ばされ、仲間の死体を押し潰した。
 刃の一閃で敵の胴と腕をかっさばいた男が、耳障りな笑い声を上げながら湾曲した刃の先を敵の腹に突き込み、内臓をえぐり出す。飛び散る臓物が顔にかかり、それを無造作に払い落とした男は、頬にべっとりと残る血の塊を長い舌を出して舐め取り、ニタァと口角を吊り上げた。
 動ける敵はわずかしか残っていなかった………血の色でぬらぬらと光るゴールドアルゴルを手に、同じく血の色に染まる身体を無防備にさらけ出し、残忍な笑みを顔に貼りつける、それはレオノアーヌの変わり果てた姿だった。








 絶えずつきまとう浮遊感。ノイズの走る不確かな視界。血飛沫を浴びても見開かれたままの瞳は、何も映してはいない。
 耳に届くのは骨や肉の砕け散る無惨な音でも、敵の上げる断末魔の悲鳴でもなく、鼓膜を圧する剣の波動のみだった。──────ズクンッ、また一つ律動が体内を貫き、血まみれの肌を覆い尽くす斑紋がざわりと蠢動する。
 かろうじて自力で立ち上がっていた最後の一体のオークが、両手を宙に泳がせながら地面に倒れ伏していった。事切れた者もそうでない者も、全てが床に這いつくばり、一人レオノアーヌだけが屍を踏みしめ立ち尽くしている。
 仲間の死体に埋もれたまま、急所を外れた傷口から多量の血痕をまき散らしていた一体のオークが、レオノアーヌの姿を視界の端に認め唸り声を上げた。体の上に折り重なる仲間の死体を押しのける力も残ってはおらず、わずかに上体をひねったのみで呪詛の言葉を吐き散らす。レオノアーヌの感情のない瞳が動いた。つかつかとオークの傍らに歩み寄ると、ゴールドアルゴルを無造作に振り上げ、身動きできぬオークの右腕の上に垂直に刃を叩き落とす。
 グシャッと骨の砕ける音が響いた。腕を貫通し床にまで突き刺さった刃を、ぐるりと180度回転させる。えぐり込むような動きにつれて肉や腱が断ち切られ、オークの腕は胴体から分断された。
 オークの口から凄まじい咆哮が轟く。
 ゴールドアルゴルを床から引き抜き、惚けたような笑い声を放ちながらもう一方の腕に狙いを定める。だが、剣を振り上げた身体が不意にいうことをきかなくなった。
「──────!?」
 手足が動かない。背後からのびる腕にがっちりと羽交い締めにされたのだと気付いた。地に這いつくばり腕一つ上げることも叶わぬオーク達に背後を取られるなど有り得ない──────新手の出現に、レオノアーヌの身体が反射的にすさまじい闘気を放った。荒れ狂う殺意のままに暴れ、拘束を解こうともがくレオノアーヌの身体が、不意に引き寄せられる。


 耳元で、はっきりとささやく低い声。
「お前は人間だ──────…。 そうだろ? レオノアーヌ………」


 穏やかに告げられるその声は、狂気に揺さぶられ散り散りになっていたレオノアーヌの意識の奥底に、確かに届いた。


(……… あ………)
 戒めを解こうと暴れていた手足が、ぎこちなく動きを止める。
 ガランッ、──────
 鈍い金属音を響かせ、レオノアーヌの手を離れたゴールドアルゴルが床に転がった。


 心臓が狂ったように早鐘を打つ。全身を浸食する斑紋がざわりとわななく。だが、血に濡れた肌は元の色の判別がつかぬほどに赤く、その斑紋は背後の男に気付かれることのないまま、少しずつ、少しずつ消え失せていった。
 レオノアーヌは呆然と宙を振り仰いだ。
 血に染まり、歪んでいた視界が明瞭なものになっていく。
「………俺…は──────…?」
 首筋に触れる、自分のものではない髪の感触。プラチナシルバーの髪が視界の端に入り、レオノアーヌは背後で自分を拘束しているのが誰なのか気付いた。


「正気に返ったか。」
 ほっとしたようにミュゼルワールが言う。
 剣を手放したことで呪縛から解き放たれたレオノアーヌの身体が、突然の解放に戸惑うようにガクンと揺れ、力を失った。
 足元から崩れ落ちて行く身体を背後からしっかりと支えられる。レオノアーヌは後頭部をミュゼルワールの胸板に押し付けたまま、真上にある顔を放心したように見上げた。
「ミュゼル…ワール……?」
「手間のかかる奴だ。」
 かすかに苦笑しつつ、穏やかな口調のままミュゼルワールが言う。
 レオノアーヌは力なく身体を預けたまま、忌々しげに顔を歪めた。 
「……あんだよ、その保護者ヅラは……。てめぇ、それで俺を御したつもりかよ…? 調子こいてんじゃねェぞ、クソが……」 
 その声に相手を圧する響きはない。レオノアーヌは後頭部をミュゼルワールの胸に埋めると、ぐったりと瞼を閉じた。
「なんとでも言え。」
 最初から礼など期待していなかったのだろう。ミュゼルワールは顔色一つ変えずにそう言うと、すっと顔を上げ、油断なく辺りを見回した。
「上層の敵の気配が途絶えた………。動くなら今のうちだ。」
 レオノアーヌの片腕を持ち上げ、肩を貸して立ち上がらせようとするミュゼルワールに、レオノアーヌはふと気付いたように声を上げた。
「あ。──────待った」
 ミュゼルワールの身体を押しのけ、ふらりと上体を傾ける。
「おい……」
 レオノアーヌが床に放置されたゴールドアルゴルに手をのばすのを見て、ミュゼルワールはあからさまに眉をひそめた。
「置いていけよ、そんなモン─────お前、また………」
「大丈夫だ…たぶんな。なんか波動を感じなくなってる」
 レオノアーヌは人差し指の先で黄金色の刃の端をコツリと突いた。案の定、何も感じない。
「あんだけ敵を屠りゃ、いくら呪われた剣だってちったあ大人しくなるんだろ。どのみち武器は必要なんだしよ…、まぁ暴走したとしても、どっかのお節介馬鹿がまたカラダ張って止めにくるだろーさ。」
「ハ、……だったらせいぜいそのお節介馬鹿に気に入られるよう尻尾振ってみろよ。」
「尻尾振らなくても来るからお節介なんだろ?」
 悪態の応酬はともかく、ゴールドアルゴルから立ちのぼっていた強力な妖気がすっかり消え失せているのを見て、ミュゼルワールもしぶしぶ納得したらしい。
 レオノアーヌはゴールドアルゴルの柄にかけた手に力を込めた。ヒュッと風切り音をたて、巨大な剣の切っ先で綺麗な弧を描く。
 確かめるように刃先を持ち上げ、血に濡れた黄金の輝きを睨みつけるレオノアーヌに、ミュゼルワールが言った。
「遊んでんじゃねえ。行くぞ」
 さっさと先に歩き出すミュゼルワールに、レオノアーヌが唇を尖らせる。
「あんだよ。肩貸してくれんじゃねぇの?」
 ミュゼルワールは肩越しに振り返った。
「必要ねえだろが……。してほしけりゃ頭下げて頼んでみな。」
「やなこった。」
 ブンとゴールドアルゴルの刃をうならせると、レオノアーヌは剣を持ち上げていた腕を下ろし、ミュゼルワールの後を追った。





*         *         *






 暖かい暖炉の炎。
 簡素な宿場ながら、長期滞在している宿主の人柄を反映してか、その部屋はほっとするような居心地のよさを訪れる者に与えてくれる。
「…にしても、ギュスターヴの野郎がここに何の用だったんだ? お前あいつの知り合いなのか?」
 供された食事に遠慮なく手をつけながら、ヴェスティーレが言った。


 ジョゼアーノは暖めたミルクを満たした壷を食卓の中央に置きながら、わずかにかぶりを振った。
「いえ、知り合いというわけでは……。あの方は肩書きこそ終身助祭ですが、サンドリア国教会の大司教様から絶対的な信頼を得ておられますからね。僕のような一介の修道士とお話をされることなど滅多にありません。」
「あんな野郎に敬語なんざ使う必要ねえよ………。」
 ヴェスティーレがちぎったパンを行儀悪くスープに浸しながら、不快そうに顔をしかめる。
 ジョゼアーノはくすくすと笑い、
「随分とあの方を嫌っておられるのですね、ヴェスティーレ様。」
「当たり前だろ。成績優秀、女にゃモテる、おまけに人を小馬鹿にしたあの態度だ。女共の前じゃえらく違う態度を取るらしいがなぁ………あんなのはヴァナ・ディール中の野郎の敵だぜ。」
 アシュメアを巡る相関関係を知らない訳でもないジョゼアーノは、しかしそのことには触れず、木のカトラリーでサラダを取り分けながら言葉を継いだ。
「それはともかく─────今日あの方が来られたのは、リーダに話を聞くためだったようですよ。」
「あのゴブリンに?」
 ジョゼアーノが獣人相手に布教活動を行う際、リーダヴォクスというゴブリンを通訳兼案内役として雇っていることは知っていた。ヴェスティーレは直接話をしたことはないのだが、なかなか流暢な人間語を操るらしい。
「えぇ。リーダと二人きりにしてくれと言われたので僕はその場にいませんでしたが、なんでもオーク軍が捕虜を捕えた際の扱いについて聞いておられたようです。」
「その場にいなかった割には内容把握してるじゃねえか。」
「特に口止めはされなかったとリーダが言ってましたので………そりゃ僕も、多少は気になりますからね。」
 ふふ、とジョゼアーノがいたずらっぽく笑う。
 ヴェスティーレは大きく切り分けたサーモンのクルートを口に放り込んだ。
「ふぅむ、捕虜の扱いねぇ………。」
「ええ。オークが敵の投降を受け入れ、自軍に引き入れることはあり得るのか、と。」
 ヴェスティーレはフォークを口に運ぶ手を止めた。
「自軍に引き入れる──────?」
「はい。実際、過去にそういう事例もあったようですよ。さすがに我々人間の捕虜には前例がありませんが、投降したクゥダフの将軍を客将として迎え入れたことがあるとか。実力があって、なおかつ皇帝に絶対の服従を誓いさえすれば、種族は問わないみたいですね。」
「──────…。」
 ヴェスティーレはフォークを持つ手を静かにテーブルの上に置いた。


 ──────偶然………だろうか。
 このタイミングで、オーク軍の捕虜の話とは。


「ところでヴェスティーレ様は、今日は何のご用事でここへ? まさか晩ご飯をたかりに来られただけではないですよね?」
 ヴェスティーレはきれいに空になった皿を脇にどけながら、ジョゼアーノを軽く睨みつけた。
「お前、見た目の割にたま〜に口が悪いよな……。」
「おかげさまで。僕も獣人達にさんざん揉まれてきましたからね。」
 手際よくテーブルの上を片付け、白い磁器のティーセットを並べながらジョゼアーノが微笑む。
 手の平の上の小動物が悪ぶってみせているようなその風情に、ヴェスティーレは笑いを噛み殺しながら懐から煙草を取り出した。
「…あ。構わないか?」
 無意識に火を点けかけてから、ふと気付いたようにジョゼアーノに目をやる。
「どうぞ、一本だけでしたら。」
 優雅な手つきでジョゼアーノがサンドリアティーを満たしたティーポットを傾けた。黄金色の輪がカップに広がり、豊かな香りが漂う。
「ここに来たのはまぁ、オレも聞きたいことがあったからなんだが………お前、レオノアーヌって傭兵と面識はあるか?」
 ジョゼアーノが、カップを差し出す手を止めた。
「……レオノアーヌ様……ですか?」
「ああ。その口調だと知ってるらしいな。今オレはそいつの行方を追っていてな………まあ正確には、そいつと行動を共にしてる奴を追ってるんだが。お前、何か知らないか?」
「…………。」
 カップをカタリとソーサーに置くと、ジョゼアーノはしばし口をつぐみ、自分の椅子に静かに腰を下ろした。
「なんだよ。何でそこで黙るんだ?」
「いえ……」
 ジョゼアーノはテーブルの上で組んだ手に視線を落とし、
「レオノアーヌ様のことを聞かれるのは、今日これで二度目なので──────。」
「………?」
 ヴェスティーレは眉を上げた。
「まさか、ギュスターヴの野郎が?」
「いえ、違いますが、ギュスターヴ様と同じ神殿騎士団の方で─────行き先に心当たりはないかと。猛狗傭兵団の団員の方々にも聞いてまわっていたようです。」
「神殿騎士団が………?」
 王都の治安維持に奔走する神殿騎士団が、風紀を乱す元凶たる傭兵団の長にハナシをつけるためと、無理矢理考えられなくもない。
 だが、もし自分と同じ目的で動いているのだとすれば──────なぜ、神殿騎士団なのだろうか。
「で、実際どうなんだ。お前は何か知ってるのか?」
 ジョゼアーノは客用の灰皿を差し出しながら首を振った。
「いえ、残念ながら。あの方が今王都におられないということすら、騎士団の方のお話を聞いて知ったくらいですから。僕はあの方と、さして親しいわけではないのです。」
「ふむ。…あの方、って、傭兵に対して使う言葉か? どんな関係なんだよ、そいつとは。」
「……レオノアーヌ様は僕の命の恩人です……。」
 ジョゼアーノはカップを両手で包み込むように持ち上げ、あたたかい液体をひとくちすすった。
 白い陶器の灰皿に灰を落としながら、ヴェスティーレが眉を上げる。
「命を救われたってのか?」
「ええ。あれはずいぶん前のことですが………僕は以前、布教活動の為に各地を回っていた際、移動中のオークの一軍に捕えられてしまったことがあるんです。頼みのリーダは姿をくらましてしまうし……、さすがに今回ばかりはもうダメだと思い、真夜中に一人、檻の中でアルタナ様に静かに祈りを捧げていたのですが──────」
「………」
「そこへ、あの方が不意に現れて。最初は檻の外に姿を見せたと思ったらすぐにいなくなってしまわれたのですが、しばらくすると再び現れて、檻の鍵を僕に放ってよこしたんです。ついでだ、とか言いながら。僕が鍵を開けて檻を出ると、『さっさと消えやがれ、こんなトコを見られでもしたら全ておじゃんだ』と投げつけるように言って、また姿を消してしまわれました。」
 ヴェスティーレは黙りこくったままカップから立ちのぼる淡い湯気を見据えている。
「それから何年も姿をお見かけすることはなかったのですが─────今から、二ヶ月ほど前ですか。南サンドの番犬横町に居を据えた傭兵達の中に、あの方を偶然見かけて。大きな団を率いておられる方だったのですね。僕と遭遇した時もそうだったのかは分かりませんが。」
 そこが問題なんだ、とヴェスティーレは内心呟いた。──────まがりなりにも最大勢力といわれる傭兵団を率いていながら、なぜその男は単独行動を取るのだろうか。
 習得が困難なはずの獣人語をたやすく操り、大きな戦の起きることを予期したようなタイミングで王都へ現れた男。ジョゼアーノを気まぐれに救いつつ放った言葉は、言い換えれば『人間を救うところをオーク共に見られたら全ておじゃんだ』となる──────敵軍の中に一人忍び込み、その男は何をするつもりだったのだろう。


(ラジュリーズ………。お前が連れてった男は、本当に味方なんだろうな………?)


 手にした煙草はほとんど口にされることなく陶器の上で灰になってしまった。
 ジョゼアーノは、黙りこくったまま険しい表情を浮かべているヴェスティーレを、静かな眼差しで見つめた。
「レオノアーヌ様は何かの嫌疑をかけられているのですか?」
「あ? ……あぁ、いや……」
 ヴェスティーレは短くなった煙草をギュッと灰皿に押し付けた。
「そういうわけじゃねえさ。………少なくとも、オレの用事ではな………。神殿騎士団の奴らがなんでそいつを追ってるのかはよく分からんが………」
 ジョゼアーノは長い睫毛をかすかに伏せると、首にかけたロザリオをふわりと握りしめた。
「神殿騎士団の方々は、風紀を乱す傭兵の方達を毛嫌いしておられるようですね。僕にもその気持ちは分かります。実際、レオノアーヌ様に助けていただかなかったら、僕だって同じように彼らの言動に眉をひそめていたでしょうから………。でも、行動で示す者にこそ福音は訪れると、アルタナ様はおっしゃっておられます。………僕が今ここにこうしていられるのはあの方のお陰です。あの方は乱暴な態度や言葉遣いではなく、行動で評価されるべき方なんです。」
 きっぱりと言い切るジョゼアーノの瞳には、揺るがない光があった。
「──────…。」
 ヴェスティーレは香り高いサンドリアティーをゆっくりと口に含んだ。
 レオノアーヌと面識のないヴェスティーレには、その人となりを正確に判断することなど所詮不可能だった。………だが、ラジュリーズのことならよく分かる。
 ラジュリーズは人の性格を読み違えるようなヘマは決してしない男だ。そのラジュリーズが認めたというのなら、自分が疑いを差し挟む余地はないのだろう。


 問題は、神殿騎士団が果たしてどのように考えているのか──────だ。
 ギュスターヴが絡んでいるのであればなおさらだろう。


 ふっと、顔をうつむけてヴェスティーレは笑った。
「なるほどな。ありがとよ、話を聞かせてくれて。またそのうち寄らせてもらうぜ、今度は純粋にメシをたかりにな。」
「いつでもどうぞ。ただし人の家の軒先で他の方と喧嘩なさるのはおやめ下さいね。アシュメア様に見られたら、子供じみたことをと笑われますよ。」
「う、うるせえよ……。」
 アシュメアと自分との関係を知る数少ない人間に釘を刺され、ヴェスティーレは情けない声を出した。








 この時間に自分の屋敷に戻ったのでは家人に気付かれてしまう。ジョゼアーノの憩う宿場を後にしたヴェスティーレは、私服姿であることを利用し、レンタルハウスに潜り込むことに決めた。
 獅子の広場へ向かう途中、リンクパールごしに通信が入る。
 ラヴォール村に残してきた副官からだった。
 噴水の前で立ち止まり、人影のない木陰の一角を見つけてヴェスティーレは雑踏から抜け出した。道をゆく人の群れにさりげなく背を向け、低い声で応答する。
《おう、オレだ。そっちのこと任せちまって悪かったな。村の様子はどうだ?》
《復興支援は順調です、隊長。オーク共が舞い戻ってくる気配は今の所ないようです。》
《そうか。オレも朝一でそっちに戻る─────特に急ぎの用はねえよな?》
《…残念ながら、そうでもありません。》
《ん……?》
 パールごしに伝わる声は目の前の雑踏にともすればかき消され、うまく耳に届かない。
 ヴェスティーレはパールを装着した耳を手の平で覆った。
《悪い、もう一度言ってくれ。周りがうるさくてよく聞こえなかった》
《失礼しました。今一度繰り返します。》
 んんっ、と副官が咳払いをする音が聞こえる。
《ジャグナー森林にオーク軍の動向を探りに向かわせていた小隊から、先程連絡が入りました。彼らは薬草を採りに外に出ていたラヴォール村の村民から、人の死体らしきものを見つけたので運ぶのを手伝ってほしいとの要請を受けたのですが…》
《ふむ?》
《その村民から聞いた死体の特徴は、鉄鷹騎士隊長ラジュリーズ様に酷似しています──────現在、その村民の案内で小隊が現場に向かっているところです。》
《なんだと……?》
 ヴェスティーレは目を見開いた。